ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年6月]を短くまとめてのせています。

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『悔い改めるなら』
ルカの福音書 15章1節-10節
2007年 6月24日(日)

 イエス様が譬話をされる時、常にその意図があります。今日の所では、1-3節にそのきっかけが記されています。イエス様が取税人や罪人と一緒に食事をしているのを、パリサイ人や律法学者たちが非難したことに対してこの譬が語られたのです。
この二つの譬話で重要な言葉は、5、6、7、10節で共通して使われている「喜び」です。これは神様の喜びですが、何をこんなに喜んでおられるのでしょうか。
 一つ目の譬は、「いなくなった羊」です。いなくなった羊そのものが良い、というのではありません。イエス様は取税人や罪人の生き方を喜んで是認されたのではありません。しかし1節のところでは、その神様から遠ざかっていた人々が、神様の話を聞こうとイエス様の所に近寄ってきたのです。イエス様はこれを喜んでいるのです。そして、イエスは神のことをよく知っているはずのパリサイ人や律法学者にも、共に喜んでほしいと思っていたのです。
二つ目の譬えは、「なくした銀貨」ですが、「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜」すのです。失われた銀貨を必死に探し出す姿が記されています。ここにも失われた人を神様は必死で探しだし、そして見つけ出したときには、大いに喜ばれる姿が描かれています。
 二つの譬えの最後7節と10節に「悔い改め」という言葉が出てきます。この言葉は方向転換をするという意味があります。心の方向を転換する、生き方を転換するということです。一つ一つの小さな罪を反省することは大切ですが、神様に向かって生きる、神様の為に生きるように方向転換をするということを神様は求めておられ、そのことを喜ばれるのです。神様は悔い改めを喜ばれます。一度悔い改めたらそれで完成なのではなく、悔い改め続ける、つまり、いつも神様の方を向き、神様のみことばに耳を傾け、神様に従い続ける歩みを共に歩んでまいりましょう。

『嵐の中で』
マルコの福音書 4章35節-41節
2007年 6月17日(日)

 私たちの人生で新しい場所に踏み出すような時があります。その新しい一歩の中には様々な嵐が待ち受けていることは少なくないでしょう。ここに出てくる弟子たちも同様で、彼らを待っていたのは湖の上での嵐でした。パニックになり、うろたえる弟子たちを尻目に、ただ一人、そこがまるで凪いだ静かな浜辺であるかのように、悠然と寝ておられる方がいました。イエス様でした。
 39節「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」と書かれています。あれほど激しかった風が静まりました。弟子たちの人間的な勇ましさも、漁師としての力も、あの嵐の中では全く役に立ちませんでした。弟子たちがしたただ一つのことはイエス様のところに行き、イエス様を揺り起こしたのです。しかしこれが最善のことでもありました。
 嵐の中でおぼれそうになる時、私たちはまるで自分が見捨てられ、見放されたかのように思います。時には、神様の助けが私たちの期待した通りには与えられないと感じ、いったいどこに神はいるのかと思い、弟子たちのように眠っておられるイエス様に食ってかかるような気持ちになることもあるでしょう。
 しかし、神様は決して見捨てておられるのではありません。最も大切なことは、どんな時にも、イエス様は、私たちとともに同じ舟の中にいてくださるということです。眠っておられ、まるでそこにいないかのように感じるかもしれない。けれども、イエス様はそこにいてくださいます。そして、最もよい時に、嵐に向かって「黙れ、静まれ」と命じてくださるのです。私たちのすべての問題を知り、そのすべての問題に対しての解決をもっておられ、たとえ死ということにすらも永遠の命という答えを持っておられるお方が、同じ船に乗っていてくださるのです。そのイエス様とともに歩む人生をスタートいたしましょう。

『イエス様の弟子になること』
ルカの福音書 14章25節-35節
2007年 6月10日(日)

 イエス様は大ぜいの群衆に向かって、27節「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」と言います。
 信仰とは「信じる」ことだけでなく、「従う」ことでもあるということが分かります。「願う」信仰、「信じる」信仰から一歩も二歩も踏み出した「従う」信仰、「自分の十字架を負って」生きる事を求めておられるのです。十字架とは、神様に従おうとする時に起こる犠牲です。しかし、「従う」ことは苦しいことなのでしょうか。イエス様は私たちを愛するがゆえに、創造主なる神様との関係の回復、そして永遠の命のゆえに十字架かかってくださいました。そのイエス様に従うということは感謝や平安が私たちに与えられることなのです。
 28節から32節のところには当たり前のこの世の知恵が語られています。それと同様に、神の国においては「自分の財産全部を捨てイエス様の弟子になる」(33)ことは、知恵深いこと、当たり前のことなのだと聖書は言います。なぜならば、財産であれ、この世のどんな価値であれ、神様がそれを取り去ってしまうならば、私たちは頼るべきものがなくなってしまうからです。12章のところでも、たくさん穀物を溜め込んだ金持ちが『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』(12:20)とありました。神様の御心の通りが実は私たちの最善であるのです。イエス様の弟子になることが最善の選択肢なのです。
 イエス様はそのようなところまで深められた信仰に生きて欲しいと私たちに求めておられるのです。それは「地の塩」としてイエス様ご自身のように生きる、「イエス様の弟子となって生きる」ことが求められているということです。神様の、そしてイエス様のその求めに応答して歩んでまいりましょう。

『神様の招き』
ルカの福音書 14章12節-24節
2007年 6月3日(日)

 イエス様も神の国を食事の席に譬えています。それは大ぜいの人が招かれた盛大な宴会です。神の国には、多くの者が招かれています。そして神の国に招かれることは、楽しいこと、嬉しいこと、喜ばしいこと、待ち遠しいことである、ということを意味しています。そして神様の願いは、23節に「この家がいっぱいになる」とあるように、この喜ばしい招きに応えて大勢の人々が集まって来ることです。
ところが、この譬えにおいて、この大いなる恵みに招かれた人が、次々と断り出したというのです。彼らは、この神様の招きよりももっと大切なものがある、と言って断っているのです。ここには、神様より与えられた大きな恵みに気付かずに、目先の事にのみ気を取られている私達人間の姿があります。
主人は、しもべを通りに遣わして、最初招かれていなかった人達を急遽呼びにやりました。注目したいのは何とかして沢山の人がごちそうを食べに来てくれるようにと、熱心になっている主人の態度です。神様は、私達を一人でも多く、神様の恵みに入れようと一生懸命なのです。
神様は招かれる価値のない私たちを招いてくださっています。私達すべてを、大いなる恵みへと招いて下さっています。それも、熱心に、一生懸命、招いて下さっているのです。私達を熱心に招いて下さっている神様の姿に、私達は目を留める必要があります。一生懸命私達を招いて下さる神の恵みに私達は気付かなければなりません。
毎週の礼拝は、宴会に譬えられる神様の大いなる恵みの場の一つの現れでもあります。そして私達が、この招きに応え歩んで行くならば、神様は大きな喜びをもって、私達を心から迎えて下さるのです。私達は、この神様の熱心な招きに益々応える者でありたいと思います。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28