ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年7月]を短くまとめてのせています。

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『神の前で』
ルカの福音書 16章14節-18節
2007年 7月29日(日)

 この箇所は3つに分ける事が出来ます。
 1つ目の14、15節は導入です。お金好きなパリサイ人があざ笑っている場面であると分かります。直前の13節にある「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」という言葉に対しての反応です。パリサイ人は、神に仕える者は経済的にも祝福され人々にもあがめられるというものでした。しかしその理解が逆転し「富があるから神に祝福されている」と捉えてしまったらどうでしょう。イエス様はその彼らの考えに対して「人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます」とおっしゃいます。私たちにとっても神様を求めることを第一とせず、富や名誉を求めることが目的となることは罠です。
 2つ目の16、17部分はパリサイ人達に関連して読むと理解できます。神様に祝福されるよりも人々から褒められ崇められることが大事になってしまう彼らです。律法が大事なのではなく、自分たちで律法を捻じ曲げてでも自らを正しい者としているのです。パリサイ人達は、禁欲的なヨハネを「悪霊つき」と批判し、イエス様が罪人や取税人と一緒にいると、禁欲的でないと言うのです。しかし、17節では、どんなに捻じ曲げようとしても律法は変わらないという事が言われています。
 3つ目は18節です。ここだけだと「離婚について」ですがここで言われている結婚は、神様と私たち人間との関係のことです。神様に従うと言いながら、実は富に仕えている貪欲なパリサイ派の人々を比喩的に指摘しているのです。そしてその罪、姦通の罪は死刑なのです。
 自らを正しい者とすることは罪であり、そのなかでも神を神としない事が最も大きな罪であり、神から離れた罪の罰は死であると言う事です。人の目を気にして歩むのではなく、神の前に生きるということを最も大切なこととして歩んでまいりましょう。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Tサムエル16:7)

『小さい事に忠実な人』
ルカの福音書 16章1節-13節
2007年 7月15日(日)

 この譬話は「不正な管理人のたとえ」とか「抜けめない管理人のたとえ」という題がつけられています。この譬話は、福音書の中でも最も解釈の難しいものの一つだといえるかもしれません。今日の譬話で、不正なことをした管理人が非難されているというのならよく分かります。しかし、その逆に誉められている、というのですから、どうなっているのか、と思われるかもしれません。
 「譬え」というのは、もっと大切な何かを言うために、身近な例を引き合いに出しているのです。ですから、管理人のしたような負債の証書を偽造するということを薦めているのではありません。イエス様は8節において、この管理人の不正をほめているのでなく、利口なやり方をほめたのです。この譬を用いてルカが言いたいのは、10節「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」ということです。
 「小さい事」というのは、この世でいかに生きているか、ということです。これは人間に与えられた一つの課題です。労働とか、お金を稼ぐというのは大切なことです。イエス様はしかし、この世の生活を精一杯生きる、ということだけを言っているのではありません。もっと大切なのは、「大きい事にも忠実である」ということです。これは、単にこの世の生活でなく、本当の命、永遠の命のことです。イエス様は、明日を精一杯生きることに一生懸命になることと、さらにもっと大切な永遠の生命を得るためにさらに一生懸命になることを求めておられるのです。小事と大事は無関係ではなく、明日を精一杯生きるということを真剣に考える者は、もっと大切な永遠の生命を得るためにも真剣に考える、ということです。
 私達は、小さな事に忠実に、そして更に大きな事に忠実な者となりたいと思います。

『放蕩息子』
ルカの福音書 15章11節-32節
2007年 7月1日(日)

 有名な「放蕩息子」の話です。この譬え話の主人公は、放蕩の限りを尽くして戻ってきた次男ですが、実は長男も、また、父親も主人公なのではないでしょうか。そして、それぞれの登場人物を自分に当てはめて読む時に、神様からのメッセージが聞こえて来るのではないでしょうか。
 さて、弟息子は、父親からの財産の分け前を要求し、刺激のありそうな外国暮らしを望んで「遠い国」へ旅立ってしまいます。しかし財産を「放蕩して湯水のように」使い、すべてを使い果たしたところへ「その国に大ききんが」おこり、ユダヤ人としての誇りさえも失ってしまうほどにどん底に落ちてしまったのです。
 そして、落ちるところまで落ちたときに弟息子はようやく気づきます。そして「我に返った」とあります。元々のギリシャ語では「自分自身に帰る」という意味です。本来の自分自身を取り戻し、悔い改めて家に戻るのです。そして父の大きな愛に迎えられるのです。
 その時、兄息子が登場します。放蕩の限りを尽くして戻ってきた弟息子を、無条件で赦して喜んで迎えるのはおかしいと考えました。当然のことかもしれません。そんな兄息子を父は28節「いろいろなだめてみた」とあります。この「なだめる」という言葉は、「慰める」「呼び寄せる」という意味を持ちます。実は兄息子自身も弟息子と同じように父を失っていたのです。この父を失っていた兄息子を父がなだめることによって呼び寄せるのです。
 私達はこの3人から学ばなくてはなりません。弟息子のように悔い改めて神様のもとに帰り、そこに留まり続けることが求められます。兄息子のように神様の近くに居るようで離れてしまわないようにしなければなりません。そしてこの父親のように、深い赦す心を持ちたいと思います。弟息子から学び兄息子から学び、そして父親の姿から学び、神様の近くにいて聖書から、学び続け歩んでまいりましょう。