ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年8月]を短くまとめてのせています。

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『神の国はいつ来るのか』
ルカの福音書 17章20節-37節
2007年 8月26日(日)

 「神の国はいつ来るのか」と尋ねたパリサイ人にイエス様は「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。…神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(20,21)とお答えになりました。
 この「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」という言葉ですが、人間の内面、心にあるのだと解釈されたこともあったようです。しかしそのように限定して解釈してしまいますと、結局は人間の心の持ちようにかかっているということなると、神の国が精神論になってしまいます。ではどういうことなのでしょうか。「イエス・キリストがこの地上に来たことによってすでにあなたがたの中、私たち人類の中に神の国が始まっているのだ」という意味です。ここでの「神の国」とは実際の国家というより、「神の支配」ということなのです。
 さて、その後、今度はイエス様の方から弟子達に終末について語ります。大切なことは、そのような日のために、備えて生きるということです。つまり、「イエス・キリストを信じて、イエス・キリストに従って生きる」ということです。これが終末に向かって備える生き方です。これこそが、世界や私たちの人生が、どのようであっても神の国に入ることができるパスポートなのです。
 私たちが厳しい現実の中で途方に暮れるような時、場合によっては神様の存在や支配をも疑ってしまいそうになる時、神の支配はあなたがたのただ中にあるのです、とイエス様はおっしゃるのです。神様の支配は、「今、ここで、既に」私たちの中に及んでいるのです。教会の集まりの中で、私たちの生活や人生の歩みの中で、神様はその支配を及ぼしてくださっているのです。信仰の目をしっかりと見開いて、神様が今、ここに、既にいてくださり、すべてのことを愛と恵みをもって支配していてくださることを、その聖書のメッセージにしっかり目を向けて、信じて歩もうではありませんか。

『神をほめたたえながら』
ルカの福音書 17章11節-19節
2007年 8月19日(日)

 聖書にはツァラアトに冒された人がしばしば出てきますが、当時の社会においてその偏見・差別は非常に大きいものでした。この十人のツァラアトに冒された人たちは、イエス様が自分達の住んでいる村を通りかかったというので、大声で叫んだ、というのです。
 イエス様が祭司の所に行きなさい、と言われたのは、彼らの病気が癒されるのだ、という宣言を現しています。そしてそれを証明してもらいなさい、ということなのです。そして、この十人のツァラアトに冒された人は、祭司の所へ行く途中に癒された、治った、というのです。そこで、彼らのまず第一になすべきことは、神様に感謝し、神様のみ業をほめたたえることでした。しかし、それをしたのは一人だけ、それもサマリア人だったというのです。他の九人は神様に感謝をしなかったというのではないでしょうが、まず祭司の所へ行って、その証明をもらうことしか考えなかったのです。
 イエス様は、この一人のサマリア人の態度を見て、「あなたの信仰が、あなたを直したのです」と言われました。信仰というのは、神様を第一とする態度です。
 自分のことをすべてしてしまってから、神をあがめるというのでなく、まず神をあがめ、それから自分のことをするのです。
 今日のタイトルは「神をほめたたえながら」としました。神様への感謝を、神様を賛美する事を忘れてしまいがちな私達が、普段の生活において、まず神様に感謝し、神のみ名をほめたたえる生活ができるようするには、いつも神様を賛美しながら、神様に感謝しながら歩むことがコツです。いつも神様をほめたたえながら、常に神様に感謝しながら歩むことを今から実践していったらいかがでしょう。また「神をほめたたえながら」歩むということは、伝道であり証しにもなるのです。タイトルのとおり「神をほめたたえながら」日々、そして一瞬一瞬歩んでまいりましょう。

『赦し仕える信仰』
ルカの福音書 17章1節-10節
2007年 8月12日(日)

 この箇所にはイエス様が弟子たちに教えられた三つの教えがあります。
 一つ目は1-4節で、赦すということです。他人を赦すということは、簡単ではありません。それは、私達がいかに大きな赦しを受けているかが分からないからです。神は、私達を愛し、また大きな罪を赦して下さっているのです。ですから私達も、他の人に対して、赦すという事が求められています。「赦さなければならない」というよりは、神様が赦して下さっている事にしっかりと目を向けていく必要があります。〜しなければならない、と思っているようなら、もっともっと神様の愛に目を向け続ける必要があるでしょう。つまり本当に意味で相手を赦すためには信仰が必要となってくるのです。
 二つ目は5,6節、その「信仰」についてです。イエス様のいう信仰というのは、大きい小さいというのでなく、信仰があるというのは神様の力にすべてを信頼することです。イエス様は「からし種ほどの信仰」と言います。僅かな信仰、つまり私たちの中にある僅かな部分でも、神様の力に完全に信頼しているならば、植わっている木が動かすことができる偉大な力を持っていることになる、ということなのです。私たちには小さくても「神様に完全に信頼したい」という思いが求められています。
 三つ目は奉仕、仕えるということです。これは神様に仕えるということです。私たちが仕えるというのは、何かを求めて、何かをしてくれるから、言うことを聞いてくれるから、願いを叶えてくれるから仕える、のではありません。まず私たちを愛し、赦し、私たちに多くのものを、いや、すべてを与えて下さっている神様に仕えることが喜びであること言うことを覚えたいと思います。
 人を赦し、純粋な気持ちをもって神様に仕えて行く者として、私たちを愛し赦してくださるこの神様を心から信じ、信頼して歩んでまいりましょう。

『聞くべき言葉』
ルカの福音書 16章19節-31節
2007年 8月5日(日)

 「金持ちとラザロの譬え」などという題が付けられる箇所です。この登場人物の二人は明らかに非常に対照的です。一方は、金持ちで、豪華な衣装を着、毎日ぜいたくに暮らしていましたが、一方は貧しく、「犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」とあり、わざわざその格差を強調するかのような惨めな姿を表現しています。明らかに、この二人のこの世での姿は、非常に不公平です。しかし同時にこの譬では、貧しい者の方はラザロという名前がしるされていますが、金持ちの方は記されていません。聖書で名前が記されるというのは、重要な人物であることを意味していてここでも「ラザロ」の方が重要人物とされているのです。ここに聖書の価値観と人間の価値観の違いがあります。
 今日の箇所は13節で、イエス様が「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言ったことに対して、「イエスをあざ笑っていた」「金の好きなパリサイ人たち」に対してこの譬を語っておられます。パリサイ人たちは、神と富とに兼ね仕えることができ、むしろ富は、神よりの祝福のしるしだとして、自慢していたのです。
 この譬えに出てくる金持ちは、別に悪いことをしていたとは言われていませんが、恐らく自分の財産を誇り、自分の楽しみしか考えていなかったようです。この貧しい人の「ラザロ」という名前は「神が助けて下さる」という意味です。彼はその名前の通り、神に助けられないでは生きてはいけないような状況に暮らしていたのです。
 金持ちが悪いわけではありませんし貧しく生きよと語られているわけでもありません。私達は神様に頼って歩んでいくことを求められているのです。そのためにはどうしたら良いのでしょうか。それは聞くべき言葉に耳を傾けるということです。聖書の言葉に耳を傾けることです。私たちはもっと聖書に注目し、聖書の言葉「聞くべき言葉」に耳を傾けて歩んでまいりましょう。