ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年9月]を短くまとめてのせています。

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『見えるようになれ』
ルカの福音書 18章31節-43節
2007年 9月30日(日)

 イエス様がご自分の十字架の死について予告する場面です。しかし34節を見ると「弟子たちには、…わからなかった。」と書かれています。
弟子達にとって、このイエス様の言葉が理解できなかったことの一つは、このことがあまりもにあってはならないことで、そんなことは信じられないから、悟れなかったと考えられます。
 またもうひとつの理由は、イエス様がそのことを述べる時にご自身の事を「人の子」という言い方をされているからではないかと考えられます。「人の子」という言葉は、旧約聖書からメシアの代名詞になってきていますが、十字架の死ということが、単なる正義感とか人情的な自己犠牲の死であるという自分の人間的な意志とか行動とかとうものではなく、神のご計画である、神がこのような道を用意している、ということをイエス様が深く受け止めておられるが故に「人の子」と言い、弟子達には理解できなかったということです。
 そして後半のところですが、ある盲人の目がイエス様によって開かれたという出来事が記されています。これはイエス様が最後になさった奇跡です。そしてまた、弟子達がイエス様の十字架の出来事を理解できなかったということと結びつけられての記事であると考えられます。弟子達がいかに盲目であったかということと関係があるのです。
 イエス様は「わたしに何をしてほしいのか。」と問い、彼は「主よ。目が見えるようになることです。」と答えます。私たちも神様に具体的に祈ることが求められているのです。漠然とした祈りではなく真剣に、具体的に祈ろうではありませんか。また私たちが求めなくてはならないことは、「見えるようなる」ということです。イエス様は私たちに対してどれほど大きいことをしてくださったことでしょうか。弟子達のように目を閉ざすものではなく、このお方をもっと見える者、このお方をもっと深く豊かに知る者とさせていただきましょう。

『神にはできる』
ルカの福音書 18章18節-30節
2007年 9月23日(日)

 一人の役人がイエス様の所にやってきて「どうすれば、永遠の命を受けることができるか」という質問します。そして当時のユダヤ人の間では、この問題については、一応の答えであったモーセの律法を忠実に守る、というものでした。そしてイエス様も、この役人にそのことを言っています(20節)。
 しかしイエス様は「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります」(22節)と言われ、25節で、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われました。ここでの問題は金持ちであるとかないとかではありません。イエス様に従うとはどういうことかが問われているのです。私達は皆、自分の誇りとするものがあります。そして、そのような自慢のものが、神様に従うことを妨げる場合がしばしばあります。それらすべてを捨ててイエス様に従うことが求められているのです。しかしそれは、殆ど不可能だ(26節)ということです。永遠の生命を得るというのは、私達人間がどんなに努力しても、そ
れでもって得られるというのではないのです。むしろ、私達にはできない、という認識が必要です。しかしイエス様は、言います。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(27節)
 この世の物を全く捨てて生きるということは、できません。片手に何かを大切に持ちながら、なお永遠の命を持とうとしているのです。そんな中途半端な生き方しか出来ないのです。私達は決して完全ではありません。欠けあると認め、悔い改めることが必要なのです。
イエス様は、私達にできなくても、神にはできると言われました。私達ができないことをイエス様は、すべてを完全に捨て、全く神に従い救いを完成させてくださったのです。「神にはできる」というのは信仰です。私達にとって大切なのは、この「神にはできる」信仰です。この信仰を持ち続けて歩んでまいりましょう。

『子どものように』
ルカの福音書 18章15節-17節
2007年 9月16日(日)

 15節に「幼子たちを、みもとに連れて来た」とありますが、新共同訳には「乳飲み子までも連れて来た」と訳されています。イエス様が子供たちに神様からの祝福を取次いでくれる方であると考えていたのです。
 それに対して弟子達は、彼らを叱ったとあります。このことについては記述がありませんので想像するしかありません。当時子供たちや女性達はその存在を軽く見られていたからだと考えることができます。或いは、イエス様は当時のイスラエル中で最も忙しい人の一人だったと想像できますので、弟子たちは、そのイエス様に配慮して、子供たちとその親たちがイエスのもとに来ようとするのを拒んだのかもしれません。
 しかし、イエス様の対応は意表を突くものでした。16節では、弟子達の思いを退け、幼子たち、乳飲み子たちを呼び寄せられます。そして、「神の国は、このような者たちのものです」と語ります。
 更に次の17節では、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」とあります。ここでイエスの語られている子供とは、まだ歩けないような幼い子供を意味しています。最も弱い者であり、導きを必要とし、両親に頼らなければ生きられない存在なのです。
 神の国とは、天国とも、信仰の世界とも言えます。あるいは教会生活とも言えるでしょう。そのような歩みの中で大切なのは、神様との関係において幼子のように生きることです。素直に頼る、神様なしには生きていけないと、信頼し従うことが求められています。神の国は、イエス様の十字架と復活によって約束となりました。これをまず、素直に信じ求め、神様に全幅の信頼をもって歩んでまいりましょう。
 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(ルカ18:17)

『自分を低くする者』
ルカの福音書 18章9節-14節
2007年 9月9日(日)

 イエス様のたとえ話が続いていますが、この箇所は実際にありえそうなたとえ話です。
ここに、全く対照的な二人の人物が登場します。一人はパリサイ人で、他の一人は取税人です。この二人は、福音書によく登場します。パリサイ人は、神の戒めを守り、敬虔な生活を送っており人々から尊敬されていましたが、取税人は、非常にさげすまれ、嫌われ、軽蔑されていました。
 ところがイエス様は、パリサイ人とはぶつかり、取税人とは食事をされたりします。そしてここでもパリサイ人が神に義とされずに、うしろめたいような生活を送っていた取税人が義とされた、というのです。
 9節には「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された」とあります。パリサイ人は、敬虔な振る舞いの中に傲慢さがあったのです。それが分かるのが11、12節のパリサイ人の祈りです。彼らは、何ら恥じるところのない真面目な生活をしていたと思います。しかしそれは自分達を誇るためのものとなっていたのです。祈りとは、自分を誇るのでなく、神を讃美し、自らの罪の赦しを乞い、神のみ心を求めることです。このパリサイ人は、神の戒めをよく知り、それを忠実に行っていたにもかかわらず、神のみ心からは遠かったのです。
 一方、この取税人は、ただ一言「罪人の私をあわれんでください」と祈りました。しかし、このような悔い改めの祈りが神様に喜ばれるのです。詩編51編でダビデは神が喜ぶのはいけにえではなく、悔い改めの心だ、と言っています。イエス様は14節で「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」とおっしゃいます。神様の前にへりくだって祈り、神様の前に自分を低くして生きていく、神様に信頼して歩む者とされるならば幸いです。

『失望せずに』
ルカの福音書 18章1節-8節
2007年 9月2日(日)

 この譬話の意図は、1節に「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるため」と記されています。非常に弱い立場の存在であるやもめでしたが、執拗に訴え続けたというのです。すると神を恐れず人を人とも思わない悪徳裁判官がうるさくてしかたがないから、とその訴えを聞くことにしたというのです。
同じように聖書の神は、私達の熱心な声を必ず聞きてくださるというのです。ここで私達に求められるのは、熱心さと、この生ける神様に対して信頼するということです。
似たような譬話がルカ11章にありますが、いずれにしても熱心な求めに神は必ず答えて下さる、ということなのです。
キリスト教はご利益宗教ではありません。それは、私たちが神に願いを叶えさせるのではなく、神が一方的に私たちに恵みを下さるからです。つまり、今日の箇所では熱心な願いを聞かれると言うメッセージですが、ここに必要不可欠な理解は、これを聞かれるのは神様の一方的な恵みであるということと、私たちが神様に信頼して熱心に願うということです。私達がこの生ける神に信頼する時、神は必ず私達の悩みを聞いてくださるのです。今日の説教タイトルは「失望せずに」といたしました。失望は、私たちの日常生活にしばしば起こってきます。また祈りというのは、時々、本当に聞かれているのだろうか、祈っても余り意味がない、あるいは祈っても効果がない、と思うことがないでしょうか。もしかしたら、今そのような思いのただ中におられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、イエス様は私たちに「失望しないで」「あきらめないで」と語りかけておられます。イエス様は、神様は一生懸命願い求める人々の願いに耳を傾けてくださるから失望しないで祈り求めなさいとおっしゃって私たちを励ましてくださっておられるのです。神様を信頼して忍耐強く待ちながら祈り続けることが大切です。私達は、この神様に全幅の信頼を置き、絶えず祈る者でありたいと思います。