ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年10月]を短くまとめてのせています。

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『ほんの小さな事にも』
ルカの福音書 19章11節-27節
2007年 10月21日(日)

 イエス様一行がエルサレムへ入場する直前の出来事です。
 12節の「ある身分の高い人」とはイエス様ご自身の事を言っています。それは後のところからでも分かります。「遠い国に行った」というのは十字架にかかり復活し天にのぼられたことを現していると考えられます。そうすると「王位を受けて帰る」というのとは再臨を現しているのです。
 つまり、イエス様が天に昇られてからの生き方、すなわち私たちの今の生き方について語られているのです。
 このたとえ話におけるポイントは何なのでしょうか。22節にあるイエス様の言葉にそのヒントがあります。ここで問題にされているのは、預かったものがそれをどうしたかではなく、どう預かったかという事ではないでしょうか。預かったミナを商売に用いた僕は、託した主人の信頼へ応答しました。一方、預かったミナを布に包んでいた僕は、主人を恐れはするものの、信頼されているとも信じられませんでした。ですからその事を僕の報告から主人は読みとって、僕の「あなたのことばによって、あなたをさばこう」とおっしゃったのではないでしょうか。
 託された資金の使い方をめぐって、忠実な僕と賞賛され多くの報酬を与えられる者と、不忠実な者として持っているものまでも取り去られる者と、二通りの生き方があるということです。5ミナもうけた者より10ミナもうけた者がすぐれているということではなく、預けてくださった主人の信頼に喜んで応答し続けていくことが大切なのです。「神様に信頼することに忠実」であることであり、小さなことでも神様に信頼して歩んでいくことが求められているのです。
 大きなこと、一大事、自分の限界を超えたことに関して神様に信頼するのではなく、ちいさな事から神様に信頼する、祈る、忠実の生きるということが求められていることをしっかりこことに留めて、今週もご一緒に歩んでまいりましょう。

『救うために』
ルカの福音書 19章1節-10節
2007年 10月7日(日)

 この箇所の少し前の所で、イエス様は「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」、そして「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカ18:24-27)とおっしゃいました。まさにその金持ちでも救われるという出来事が起こっています。
 ザアカイは「取税人のかしらで、金持ちであった」と記されています。彼は、交通の要所、エリコという町で行商人などから不正な取り立てをして、私腹を肥やしていたのでしょう。また取税人の頭という地位も手に入れた生活を送っていたのでした。しかし彼は、人々には嫌われ、軽蔑されていました。背が低かったということもあるでしょう。そんな彼の本心は人々に愛されていないという淋しさがあったのではないでしょうか。お金はあっても、常に孤独であったのではないでしょうか。そのような淋しさ、孤独から、心の底に神を求める思いがあったのではないでしょうか。現代の私達の社会は歴史上最も物が豊かな社会だということが出来るかもしれません。しかし人間関係に悩み、心身共に疲れている人が多くあります。本心はザアカイのように神や信仰を求めているのではないでしょうか。
 このようなザアカイにイエス様は「ザアカイ」と呼ばれました。木に登ってまでも自分を見ようとしているこのザアカイの心の底、自分でも気づかずに求めている姿を見られたのです。そしてイエス様の方からザアカイに出会ったのです。これは神様が人間に出会われる時の出会いを表しています。私達の方から神様を求めて出会うと思うかも知れませんが、そうではありません。神様の方から来てくださるのです。そして私達に名前で呼びかけます。
 私達も、ザアカイと変わらない罪人ですが、神は私達をも豊かに恵み、親しく呼びかけて下さっていることを思い、この恵みに応えて歩む者とさせていただきましょう。