ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年11月]を短くまとめてのせています。

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『礎の石』
ルカの福音書 20章9節-18節
2007年 11月25日(日)

 この箇所はイエス様のたとえ話です。9節をみますと、「また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。」とルカは記していますが19節をみますと、「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、」とありますから、この時イエス様は、その遠くで聞き耳を立てていた祭司長たち、つまり当時のイスラエルの指導者たちに語ろうとしていたようです。
 さて、たとえ話ですが、難しくはありません。こんなめちゃくちゃな話は考えられないと思われるかもしれません。しかし当時のイスラエルではあったようです。それを聞いた民衆は口々に「そんなことがあってはなりません。」といいますが、それに対して、イエス様は不思議なことをいいます。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。」(17節)
 家造りは、礎の石を一番慎重に選びます。建物全体を考えて一番がっしりした、あるいは見栄えのする石を選ぶのです。しかしその家造りらがこんな石は役に立たないといって捨てた石が、人間の予想を越えて、いつのまにかその家全体を支える重要な役割を担う「礎の石」になったというのです。これはイエス様ご自身の十字架の死を暗示しています。
 私たちを救うメシアは、人に捨てられるメシアだというのです。人々がこれはもう役に立たない石だといって、捨てた石がいつのまにか礎の石になったというのです。それはまさに人々が、特に選民イスラエルの偉い人々が捨てたイエス様、十字架につけて殺したイエス・キリストが、世界全体を救う救い主になったのです。これは改めて驚くべきこと、不思議なことです。まずイエス様ご自身が「家を建てる者たちの見捨てた石」となってくださり、その上で私達の救いの「礎の石」となってくださったのです。このようなイエス様を見上げて従って歩んでまいりましょう。

『天からの権威』
ルカの福音書 20章1節-8節
2007年 11月18日(日)

 この箇所は「宮清め」の後に記されている出来事です。神殿の中の商売人たちには、その裏側にある当時の祭司たちとの根深い関係がありました。47節にあるようにこのイエス様の行動に対して腹を立てたのはイエス様によって散らされた商人達ではなく、祭司長や律法学者達であった事からも分かります。そしてそのような背景の中で起きたのが、今日の箇所です。
 2節に「何の権威によって」とイエス様に詰問しています。その権威に妥当性がある時に人々は従います。しかし、その権威に妥当性がなければ人々は従うことはありません。その権威がここで問われているのです。イエス様は4節にあるように不思議な答えをなさいました。
 ここで問題になっているのは、彼が何の権威によってバプテスマを行っていたのか、何の権威によって預言者として立っていたのかと言うことです。5節以下を見る限り、おそらく彼らはヨハネを預言者とは認めていませんでしたが、実際バプテスマのヨハネは当時のユダヤでは特に民衆の間でスーパースターのような存在でした。ですから質問者たちはイエス様のこの切り返しによって口を噤まざるを得ませんでした。
 信仰というのは、ある意味では、権威に服するということです。神の権威の前に服する、それが信仰なのです。ですから信仰というものは、権威に服するということでもあるのです。それは神のみを権威ある者として、その神に服するということです。それは言葉を変えていいますと、自分を神にしない、自分を絶対化しないということです。
 私達の信仰では、権威というものは、神の権威しかないのです。そしてもし人間に権威というものがあるとすれば、それは神から与えられた権威、神から授かった権威なのです。人もっている権威というのは、あくまで授かった権威です。私たちはイエス様によって示された神の権威の前にひれ伏していく人生を歩んでまいりましょう。

『祈りの家』
ルカの福音書 19章41節-48節
2007年 11月11日(日)

 41節に「イエスは、その都のために泣いて、言われた。」とあります。なぜ、泣かれていたのでしょうか。エルサレムに住む神の民であるはずのイスラエル人たちは無理解で、真の神様から遠く離れている自分達に気が付いていませんでした。だからこのエルサレムを商売の場所、強盗の巣にしてしまったのです。そしてイエス様を十字架にかけたのです。イエス様のエルサレム入城は、涙の入城でした。
さて、イエス様は、エルサレム神殿の入って行かれたのですが、そこで「商売人たち」を追い出し、「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」と言われました。神殿とは「祈りの家」です。
 それでは私達にとって神殿とはどこでしょうか。神殿とは「祈りの家」であり真の礼拝をささげる場所ですから、教会は「祈りの家」であるということが出来ます。私達の教会もいろいろな活動をします。しかし、この教会堂で最優先されるべきものは、礼拝、そして祈りです。もし、私たちの教会が本来の在り方から逸脱してしまっているとするならば、主イエス様は同じようにされるかもしれません。
 またTコリント3:16には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる」と書かれています。私達自身が聖霊なる神様が宿る「神殿」であると聖書は言います。私達自身を「強盗の巣」にしないようにしなければなりません。真の神を礼拝しながら歩む生活、祈りを中心とした人生というものが大切なのです。信仰者であると言いながら、私たちがその本来の在り方を失っているとするならば、イエス様は同じように厳しく迫られるかもしれません。
 私達の教会も、私達自身も「祈りの家」であることが崩れかかっているとするならば、それを立て直したいものです。私たちの教会と私たち自身がイエス様に喜ばれる「祈りの家」としていただけるよう、歩んでまいりましょう。

『ろばに乗って』
ルカの福音書 19章28節-40節
2007年 11月4日(日)

 イエス様は過ぎ越しの祭りが近づいた頃、エルサレムへと向かわれました。28節に「イエスは、さらに進んで」という言葉がありますが、他の訳では「先頭に立ち」とか「先に立って進み」と訳されています。イエス様のガリラヤから始まった宣教活動でしたが、最終目標はエルサレムです。そしてそこで過ぎ越しの祭りのいけにえとして、私たちのあがないのために、十字架にかかるのです。イエス様はこのエルサレムに重大なる決意をもって進んで行かれているのです。
 さて、イエス様は、弟子たちに命じて子ろばを連れて来させようとしました(30-31節)。これは旧約聖書に預言されている言葉(今週のみことば、ゼカリヤ書9:9)と関係があります。しかし、弟子達にとっては唐突な話であって「向こうの村に行ってろばがいるのか、そのろばを果たして連れてくることが出来るのか」といぶかったのではないでしょうか。保証となるのはただ、イエス様の言葉だけでした。しかし弟子たちはその子ろばを手に入れることができたのです。そしてゼカリヤの預言が成就したのでした。私達もこのイエス様の言葉、聖書の言葉を信じて、その言葉に従って歩むときに、その約束を成就してくださるのです。
また、ここでイエス様が用いられたのは、実に無力な子ろばでした。ユダヤを政治的に解放する王であるならば、恐らく立派な軍馬か白馬に乗って堂々とやって来たでしょう。ゼカリヤ書9:10には「軍馬をエルサレムから絶やす」、そして「平和を告げる」と書かれています。軍馬でもなく白馬でもなく、イエス様は、あえてこの役に立たない、最も小さな「ろばに乗って」エルサレムに入城したのです。
 イエス様は私たちの罪を救うために十字架に向かわれたのです。弟子たちがろば連れてきたごとくにこのイエス様の言葉に従って歩む者とされたいと思います。神の国の到来のために、役にも立たない最も小さなろばの子が用いられたように私達も用いていただきましょう。