ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年12月]を短くまとめてのせています。

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『あふれるばかりの感謝』
コロサイ人への手紙 2章6,7節
2007年 12月30日(日)

 このコロサイ人への手紙は実はパウロが獄中で書いたのではないかと考えられています。パウロは感謝とは程遠い環境にありながら、感謝を実践し、そして溢れるばかりに感謝するようにと勧めているのです。
 また、この手紙は、偽りの教えと実践に対して反対するように勧めて書いてあります。今日の箇所のすぐ後にも8節「あのむなしい、だましごとの哲学」とありますが、それら偽りの教えに対してと積極的に戦うよう励ましている手紙であると読むことが出来ます。
私たちは普段どおりの中にたくさんの感謝すべきことがあります。しかしコロサイ書でいう「だましごとの哲学」のように、世の中の影響なのか、それらを当たり前のこととしてしまっているのではないでしょうか。年末には毎年繰り返されていることですが「今年はダメでも来年はいい年になるように」などと締めくくられます。しかし本当は、振り返って感謝をし、今を感謝しなければ前には進めないと思うのです。神様からの一つ一つの恵みを数え上げて、溢れるばかりに感謝して歩むことが大切なのではないでしょうか。
 しかし無理に感謝することも難しいことでしょう。心からの感謝をするにはどうしたらいいのでしょうか。それは今日の箇所にもありますように「イエス様にあって歩む、キリストの中に根ざす」ということです。この世の考え方、私たちの周りにある様々な偽りの教えは私たちから「神様への感謝」を取り去ってしまいます。しかし、イエス様としっかりとつながっていることで、感謝に溢れた歩みが出来るのです。感謝があふれ出してくると、益々イエス様に近づいていくことが、イエス様が近づいてくださることがわかるのです。とてもよい循環です。
 どうぞこの恵みの年の終わりを感謝目締めくくり、新しい年を感謝でスタートし、感謝で溢れる歩みを続けて、イエス様としっかりとつながり続ける人生を歩ませていただきましょう。

『星が導く神の導き』
マタイの福音書 2章9節-12(20)節
2007年 12月23日(日)

 約2000年前、イエス様がお生まれなさった最初のクリスマスに、そのイエス様とお会いできた人はごく限られていました。それは誰もがいけないような場所にお生まれになったからではありません。むしろイエス様がお生まれになった場所は、馬や牛やロバでさえはいることのできる場所でした。
 そんなところにお生まれになったイエス様に会いにやってきたのは、ごくわずかの人でした。ヘロデ王以下エルサレムの祭司長や律法学者たちも、そしてエルサレムの町の人々、ユダヤの人々はみんな調べたり、律法学者たちに尋ねたりすれば、イエス様にお会いできたはずですが会った人はごくわずかな人達でした。
 この違いは何でしょうか。答えは簡単です。これは現在でも同じことが言えますがイエス様にお会いするためには「求める」ということが大切なのです。この博士たちがそうでした。野を越え山を越え、何百キロ・何千キロでも恐らくラクダの背中に揺られて、山賊や海賊の危険を冒してまで、会いに行くほどの求める心があったのです。そして彼らを導いたものがありました。それが「星」でした。
 このことは私たちが導かれるときも同じです。いろいろなものがこの時の星のような役割をします。例えば、ある人にとっては、出会った相手が「星」になるでしょう。神様は、いろいろなものを星のようにして導くことがおできになります。そして大切なのは、求める心、そして一歩踏み出すことです。イエス様も「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と言っています。私たちが心低くして、この時の博士たちのように、イエス様に会うことを心から願うならば、そして希望を持って「求める」ならば、神様を信じて神様に信頼して「求める」ならば神様の導きを見出すことが出来るのです。イエス様を求め神様の導きを頂いて歩んでまいりましょう。

『不安か希望か』
マタイの福音書 2章1節-8節
2007年 12月16日(日)

 タイトルに「不安」という言葉が入っています。イエス様の降誕を待つアドベントにふさわしくないタイトルかも知れませんが、この箇所を読むと、「不安」が書かれているのです。
 ユダヤ人の王の誕生の報を聞き、喜ぶはずのヘロデ王、エルサレムの住民たちが、「恐れ惑った」(3節)とあるように「不安」を抱いたのです。その理由は、「今、来てもらっても困る」と思ったからではないでしょうか。自分の地位を脅かす者は、徹底的に排除し、ある時は暗殺し、ある時は処刑して 来たヘロデです。メシア、つまり「ユダヤ人の王」が産まれた、などと聞けば、 それは不安に思うのです。また、エルサレムの人々もローマ帝国の傘下にあってとりあえず社会情勢が安定している中で、問題があっては困る、不穏な動きから自分達の生活が脅かされては困ると思っていたのです。民衆というよりは、当時、政治的に宗教的に、そして経済的に力のある人々、ヘロデを取り巻く人々や、中心であるエルサレムに住む人々は、そのように考えていたのではないでしょうか。彼らにとっては、「間に合っている」、「今来てもらっても困る」のでした。
 私たちはこのことを笑えるでしょうか。イエス様を待ち望むこのアドベントというのは、やがて来るキリスト=再臨のキリストの到来を待つ意味もあります。「今来てもらっても困る」と思う人もいらっしゃるのではないでしょうか。
 しかしここに、メシアの到来を喜んだ人が描かれています。それが、ユダヤ人ではない東の国からやってきた博士たちです。この博士たちは、神の救いを求めていたのです。求める者に対する答えがキリストの誕生でした。イエス様は、神を求め信じようとする者にとって、神の約束の成就です。大事なのは救いが必要であると願う心です。大きな喜び、そして揺るがない希望です。神の御子の到来の喜ぶものとして歩んでまいりましょう。

『神は私たちとともにおられる』
マタイの福音書 1章18節-25節
2007年 12月2日(日)

 イエス様がお生まれになった時の事情が書かれています。きょう読んだマタイの福音書ではマリヤの夫ヨセフ、人の子イエス様の父となったヨセフが主役になっています。マリアと婚約中であったヨセフにとって、いいなずけのマリアが子を宿したと知った時、どのように思ったことでしょうか。たいへんなショックだったに違いないのです。そう考えると、決してマリアだけの問題ではなかったのです。
 ただ、改めて素朴に読み直してみて、疑問に思えることがあるのではないでしょうか。そのひとつは、ヨセフの夢の中で天使が現れて告げ、それをヨセフは信じてその通りにしたということです。「夢」は私たちも見ます。全く荒唐無稽な夢も多くあります。ヨセフの受け入れた天使の言葉というのも、それと似たり寄ったりではないのか、という疑問です。
 ヨセフはいったいどうやって「神様のお告げである」と判断したのでしょうか。
 そのことについてきょうの聖書の箇所には、22、23節のように書かれているのです。これは旧約聖書(イザヤ書7:14)に約束されていた預言の成就であるというのです。預言が成就するために、主の約束が果たされるためにヨセフは天使の言葉を受け入れてマリアを妻として迎えたというのです。
 きょうの聖書でヨセフが「正しい人」と呼ばれているのはなぜでしょうか。それは、完全という意味で正しいというのではなく、ただ主にすがる、ということです。へりくだって主にすがることが神様の求めておられることです。
 私達がすがる主はどのようなお方でしょうか。それは「インマヌエル」=「神は私たちとともにおられる」方だと聖書はいいます。このメッセージは聖書全体を通しても語られるメッセージでもあります。私たちも、共におられる神、インマヌエルであるイエス様にゆだねて、その主イエス様にすがりながら歩んでまいりましょう。