ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年1月]を短くまとめてのせています。

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『気をつけなさい』
ルカの福音書 20章45節-47節
2008年 1月27日(日)

 イエス様は、「民衆がみな耳を傾けているときに」(45節)、律法学者の最も非難すべき点を指摘されるのです。今週のみことばでもありますが、20:46、47にあります。イエス様は何に気をつけなさいと言うのでしょうか。
 律法学者たちのような生き方、価値観、振る舞い方に「気をつけなさい」と言っておられるのです。この警告は45節に「イエスは弟子たちにこう言われた」とありますように律法学者にではなく弟子たちに語られたのです。イエス様の弟子である私達にも「気をつけなさい」と語っておられます。当時の人のことや、私達の周りの誰かではなく、私自身、皆さん自身に語っておられるのです。
 46、47節にあげられた「気をつけなさい」とおっしゃる生き方の特徴は、内側よりも外側を大切にするところにあります。それはすべてをお見通しの神様を忘れてしまっているということでもあります。
 もちろん、気をつけても失敗することも少なくないでしょう。しかし、そうとなったら、しっかりその失敗、罪を受止め、認めて神様の前に告白し、清めていただいて歩み続けることが大切なのです。
 確かに私たちは罪人です。その罪を購うためにこそ、イエス様が十字架に死に、また甦ってくださったのです。ここに私たちの救いがあります。このイエス様による救いに与っているのでなければ、この批判と告発の言葉に耐えることのできる人は一人もいないことでしょう。
 この救いの原点に立った上で、私たちはなおそのような生き方をしないようにと「気をつけて」生きていくのです。いつもイエス様の十字架の購いの恵みを心にとめ、そのことを覚えて生活していく時に、主イエスは私たちのそばにいて、私たちの歩みを力強く支えてくださることでしょう。イエス様の赦しの中をしっかりと歩みながら、律法学者たちのようにならないようにと「気をつけて」歩んでまいりましょう。

『生きている者の神キリストこそ主』
ルカの福音書 20章41節-44節
2008年 1月20日(日)

 イエス様は人々にこう問いかけます。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか」(41)と問いかけます。
 ダビデはイスラエルでは優れた王でした。それでダビデは理想化され、そのダビデの血筋をひく救い主が生まれて、その方がイスラエルを救ってくれるだろうという期待が人々に広がって、「ダビデの子」という言葉が救い主、メシアの意味になっていったのです。つまり人々は王の力、軍隊の力、武力で、イスラエルに敵対するものを滅ぼして、イスラエルを敵の手から救い出す、そういうメシア、キリストというイメージがあったのです。それをイエス様はまず否定したということです。
 偉大なモーセも、エリヤも、ダビデでさえも救いを完全に成し遂げることは出来ませんでした。もちろん、今、政治や経済やイデオロギーに救いがないのは明白です。それは人間が作り出したものだからです。また私こそ救いだという人物が出てきてもそれは所詮人間です。
 イエス様は軍隊で相手を倒すことが出来るお方ではありましたが、私達の罪の身代わりとなり、十字架についてその命を投げ出したのです。そして死からよみがえり、死に対して勝利を宣言されました。このイエス・キリストこそ主であることを覚えたいと思います。私たちは十字架を見上げる時そこで捧げられた命、私たちの罪の贖い、本当の救い、全ての問題の完全な解決が示されていることを覚えたいと思います。
 様々な状況の中で私達は必死に神に祈ることがあるでしょう。そんな時、神は働いてくださらないのかと思うこともあるでしょう。しかしその時にもイエス様は、十字架と復活において勝利していることを私達に語りかけるのではないでしょうか。
 感謝と喜びを覚え確信しながら「キリストこそ主」であることを覚え、そのイエス様が十字架にかかってくださったこと、よみがえってくださったことを握り締めて、今週も歩んでまいりましょう。

『生きている者の神』
ルカの福音書 20章27節-40節
2008年 1月13日(日)

 この箇所の質問者サドカイ人は、サドカイ派というユダヤ教の一派で大祭司の家系を中心とする貴族階級であり、華やかな都会で、有力者と手を結ぶ権力者の側でした。そして彼らはモーセ五書を重んじました。そしてモーセ五書には、復活思想はほとんどないのです。そこで、彼らは復活を否定していた、というのです。
 28節以降に記されている彼らの言う規定は申命記に記されています。長男が子を残さずに死んだ場合、その次男が長男の嫁と結婚しなければならない、という規定です。その結果、死後は天国において、その女はだれの妻になるのか、という質問でした。サドカイ人は、復活など信じれば、このような不可解なことになる、というのです。
 それに対するイエス様の答えは、34-36節です。復活ということは事実です。現にイエス様は、復活されました。イエス様が日曜日に復活されたがゆえに、キリスト教会の礼拝が日曜日にもたれるようになりました。そして私達もキリストと同じように復活することが約束されています。私達はこのことを信じる者なのです。
 イエス様は38節で「神に対しては、みなが生きているからです」と言います。少し理解の難しい言葉ですが、リビングバイブルでは「神の目から見れば、すべての人が生きているのです」と訳されています。私達の目に見えることが全てではなく、人は生きるにしても死ぬにしても、その存在の一切は神様によるのだということです。サドカイ人は、この答に黙ってしまったのでした。
 クリスチャンでもサドカイ人たちのように復活を信じない人たちもいるかもしれません。しかし、私たちはイエス様が語られた通りに復活を信じ、実際に今も私たちと共に歩んでいてくださる復活のイエス様を信じて生きている中に神様の恵みが豊かに、その命の恵みが現されるのです。この復活を信じる信仰の中に歩んで参りましょう。

『神のものは神に』
ルカの福音書 20章19節-26節
2008年 1月6日(日)

 律法学者、祭司長たちは策略を巡らして、イエス様を捕らえる機会を狙っていました。彼らは綿密な計画を立て、間者…他の訳ですと「回し者」をイエス様の所に遣わしたのでした。それは、「イエスのことばを取り上げて」他の訳ですと「言葉じりをとらえ」て、イエス様から失言を引き出して、それを口実に捕らえようとしたのです。
 この質問は、巧みな罠でした。ここで彼らが問題にしたのは、カイザル(時のローマ皇帝)に納める税金のことです。もし税金を納めなくても良いと言えば、ローマに対する反乱の指導者としたてあげられます。また納めるべきだと言えば、この場合、ユダヤの民衆は、ローマの圧政に苦しんでいたので、民衆がイエス様に失望するようにもっていく事が出来たのです。そして民衆の支持さえなければ、イエス様を簡単に捕らえることができたのです。
 ところが23節「イエスはそのたくらみを見抜いて」とありますように、イエス様はそれが罠だと見破っておられたのです。こういう場合、イエス様は決してその質問に対してまともには答えません。別の角度から答えられるのです。その答えが24-25節です。この答えに質問者たちは二の句も継げないままに退散したのでした。
 そして私達もここから納税の是非を導き出すのではなく、イエス様の主張、「神のものは神に返しなさい」ということに目を向けるべきなのです。ここに深い真理があります。実はすべては神様のものであり、私たちはそれを預かっているに過ぎません。
 私達は返すべきものを返しているでしょうか。神のものを神に返すというのが、私達の日々の生活になっているでしょうか。イエス様をこの世界にお送りくださり、私達の罪を贖ってくださり、永遠の生命の約束を与えてくださった、この神様にのみ栄光を帰する生活、これが神のものを神に返す生活ではないでしょうか。