ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年2月]を短くまとめてのせています。

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『人の備え、神の備え』
ルカの福音書 22章1節-13節
2008年 2月24日(日)

 この箇所は、あの12弟子の一人であるイスカリオテのユダがイエス様を売る事を決断し、祭司長や律法学者達によるイエス様の抹殺計画が具体的になっていく場面です。何故ユダがイエス様を売ったのか、と言う問題は様々な憶測が飛んでいます。いずれにしてもその背景に、サタンの働きであったとルカは語っています。
 私たちはユダを初めとして全ての人は不完全でサタンに完全には抵抗できません。その意味ではペテロもヨハネも、他の弟子たちも、同様に裏切りましたから、ユダだけが弱かったのではなく、人は皆その弱さを抱えていると言うことです。
 ここで大切になってくるのは、主の力に信頼して護りと導きを求めつつも、不完全であるが故にサタンに捕らえられ罪を犯してしまう事を自覚し、そのたびごとに悔い改める事が大切だということです。
 今日の聖書箇所にはあと2人の弟子たちのことが出ています。ペテロとヨハネです。彼らは十字架の時に裏切りはしましたが、悔い改めてイエス様に従う人生を歩みました。ユダとこの2人の弟子たちは、どこからこのような差が生まれるのでしょうか。13節に「彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。」と出てきます。ペテロとヨハネはイエス様が、この過越の食事ができるように、そのように備えていてくださったことに驚き感動したことでしょう。しかしユダは、神様の備えに目を留める事をせず、自分で備えようとしたのではないでしょうか。人間の備えは、人間の存在と同じように不完全なものなのです。ここに両者の差があるのです。
 主が先回りをして最善の道を備えていてくださるのです。そのことを信じ希望をもって生きるのがクリスチャンの歩みです。私達も神様の備えを体験し、味わい、感動して歩み、いつでも主に立ち返ることが出来るならば幸いです。

『油断せずに』
ルカの福音書 21章20節-38節
2008年 2月17日(日)

 大地震や戦争、天変地異が起こったりして、この世が混乱し、滅亡してしまうというのが終末ではなくそれは終末の前兆にすぎないのだとイエス様は言います。
 それはただ世の終わりの日だというのではなく、神の国が完成する日だからです。28節には「贖いが近づいたのです」とあります。終末というこの世の破滅の時に、なお希望をもつことができるのだというのです。
 16世紀の宗教改革者のカルヴァンは「希望は・・・信仰を固くする。希望は、信仰が疲れ果てないようにこれを元気づける」と言っています。私たちが終末に向かって歩む時に、信仰を、そして希望を持って、望みを持って歩むときに大切なことがあります。それを今日の箇所からイエス様は二つ語っておられます。
 第一は33節の「私の言葉は決して滅びることがありません」という部分です。すべてのものは滅ぶが、イエス様の言葉は滅びないと宣言されているのです。不安定でいつか滅びる世界において、決して滅びることのない神の言葉にしっかりと結びついて生きることこそ、何にもまさって幸いなことではないでしょうか。
 第二は36節の「いつも油断せずに祈っていなさい」です。油断は禁物です。マンネリ化したり、中身のない祈りになっていく時に、信仰も希望も失せていきます。
 終わりの日が、それがいつか分からないが、いつか来るということを覚え、その日は絶望の日ではなく、希望の日、であることをしっかり認識しましょう。そしてそのことに浮き足立ったり、踊らされたり、落胆するのではなく、決して変わらない、滅びない、なくならない神様の言葉、聖書の言葉に聴き続け、そして神様との大切な関係の命綱である祈りを大切にし、油断せずに祈り続けるということを実践して、今週も歩んでまいりましょう。

『いのちを勝ち取る』
ルカの福音書 21章5節-19節
2008年 2月10日(日)

 ある人々がエルサレム神殿の前に立って、その見事な石と奉納物で宮が飾られているのを見て感心していました。それを聞いてイエス様は「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(6節)といわれました。永遠に続くように思われるものでも、いつか必ず壊される時が来ると言われたのです。「この世の終わり」についての関心は大きく二つ分かれるのではないでしょうか。一方は、非常に強い関心を持ち、もう一方は、そのようなことは全く関心がないのです。イエス様は終末についてしばしば語っておられます。私たちもそのことに心とらわれ過ぎて不安になるのでも無関心でもなくイエス様の言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。
 イエス様は「それはあなたがたのあかしをする機会となります」(13節)と語られました。
 そういわれても私は証しなんか出来ないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。イエス様は「ことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます」(15節)といいます。私たちは証しをしなければならない、ということ以上にイエス様はその証しの言葉、弁明をも私たちに授けてくださるというのです。
 そして、19節にあるように、私たちが神様のみことばを、約束を信頼して忍耐によって「いのちを勝ち取る」ものとさせていただきましょう。迫害の時、すべての人に憎まれるときは、福音があかしされ「福音があらゆる民に宣べ伝えられる」時でもあります。そのとき、キリスト者には「どんな反対者でも対抗も反論もできないような言葉と知恵をわたしがあなたに授ける」という経験をするときなのではないでしょうか。そしてそれは「忍耐」によって「いのちを勝ち取るとき」なのではないでしょうか。絶えず目を覚まして神の救いの日を待ち望みつつ歩んでまいりましょう。

『真実を告げます』
ルカの福音書 21章1節-4節
2008年 2月3日(日)

 ここで語られているのはイエス様の教えとしては珍しい献金についての出来事です。直前には「イエス様が弟子達に向けて律法学者達を警戒する様に語られている」という場面です。それに続けて書かれている出来事ですから律法学者たちのふるまいが、「偽善」ということであるならば、この貧しいやもめが自分の持っているレプタ二つをすべて捧げたという行為を、「真実」とイエス様は言うのです。
 この中からイエス様が弟子達に語ろうとしている事の一つは、私たち人間同士が互いを比較して感じている価値観は、神の前では無意味であるということです。
神様は一人一人を違う者として、違った物を与え、違った状況の中に創られたのです。だからイエス様は100%を献げたやもめの方が多くを献げたと語られているのです。
 ただ、ここでポイントにしたいのは、だから全てを献げなさいとイエス様が言っている訳ではないと言うことです。律法学者達の信仰生活が神様ではなく人に向かって見せるものとなっているとの警告と同様に、献金も人の目に向けてするのではなく、感謝の応答としてきちんと神様に向けてしなさいという教えなのです。
 Tサムエル16:7に「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあります。それが信仰の真実というものではないでしょうか。私たちが自分の偽善性から脱却できるのは、神様が真実をご存知だという信仰です。
 このことをいつも覚え気を付けていないと、忘れてしまい、外見を装い、献金も応答ではなく習慣や惰性になる危険をいつも抱えています。
 神様から与えられている恵みを日々覚え、感謝を忘れず、そして神様が真実をご存知だという事をいつも覚えて歩みましょう。恵みを数え感謝を数え、「人はうわべを見るが、主は心を見る」ということを覚えて他人と比較してではなく、神様を見つめ、神様の目で自分を見つめ歩むことが出来るならば幸いです。