ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年3月]を短くまとめてのせています。

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<イースター>『立ち直ったら』
ルカの福音書 22章31節-34節
2008年 3月30日(日)

 この場面は珍しくすべての福音書で語られています。他の福音書とルカの福音書の違いは、最初からシモン・ペテロに向けて語られているところです。ルカは最後の晩餐(21節以下)で、裏切る者とはイスカリオテのユダだけでなく、弟子たち皆がイエス様から離れて行くことをイエス様がおっしゃったと表そうとしたのではないかと考えることが出来ます。
更にこの31節では、サタンによる揺さぶりについて告げられています。私達自身、いつも危険にさらされていると言って良いでしょう。サタンは常に私達を神様から引き離そう、倒そうとねらっているのです。そんな中、イエス様は続く32節にあるように、シモンの信仰が失われないように祈られたのです。
 この32節もルカの福音書だけに見られる記述です。ここから「イエスに背くこと」は「信仰を失うこと」ではないということが分かります。試練を受けてイエス様に背いたところから立ち直るかどうか、悔改めて主に立ち返るかどうかが信仰として問われているという事なのです。
 ところで、31節では「あなたがた」弟子達がふるいにかけられると言いながら、32節ではシモンのため「あなたのため」に祈られたとあります。これはペテロ一人の為に祈ったと言うことではありません。イエス様は弟子たち全てが試練に会うことを告げておられ、そしてそのような中で「あなたがた」のために祈ったというのではなく、「あなた」のために祈った、一人一人のために祈ってくださったというのです。
 それは、私達についても言えるのです。私達もイエス様を見失うことがあります。しかし、イエス様に一人一人が祈られているのです。だから、立ち直ることができるのです。またイエス様が「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃるように、弱っている者を力づける者、ともに祈り合う者となることができるのです。どうぞ、立ち直る者、そして兄弟を力づける者として歩ませていただきましょう。

<イースター>『よみがえられました』
マルコの福音書 16章1節-8節
2008年 3月23日(日)

 安息日が終わり週の初めの早朝、なぜ女性たちはイエス様の納められた墓に行ったのでしょうか。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」(3節)と心配しながらも、心から愛する人を失い悲しみに暮れてなすすべもなく、ただ遺体のイエス様にでも会いたい、何かをしたいと切実に思っていたのでしょう。
 そしてその思いに応えるかのように彼女たちが墓についてみると、大きな石の問題はすでに解決されていました。石はすでに転がしてあったのです。しかしイエス様の遺体はそこにありませんでした。そこには真っ白な長い衣をまとった青年がいて「あの方はよみがえられました」と言うのです。
 墓に行った女性たちは、過去において親しみ愛していた人物を探し求めていたので、復活したと言う知らせを聞いたとき、ただ恐れるばかりでした。それは、生きていたイエス様を捨てられず、自分たちの理解を超えた神様の摂理を受け入れることができなかったのです。
 また、ルカの福音書とヨハネの福音書では、女性たちの話を聞いたペテロと他の弟子が墓へ走って行き、イエス様の遺体のないのを確認しています。そこには亜麻布しか残されていませんでした。しかし彼らはそのことに驚くだけで家に帰ってしまいます。「イエス様は復活された」という結論に彼らは至りませんでした。ただ驚いて帰ってしまうのです。弟子たちも、自分たちの望む地上のキリストとしてイエス様に期待していたので、望みを失ってしまったのではないでしょうか。
 この人間的な理解、自分達の人間的な期待を捨てたとき、神である主ご自身に対する期待が生まれるということを覚えておかなくてはなりません。十字架の死で人間的な希望が閉ざされました。しかし、神様が与えてくださる期待、希望がそこから始まったのです。この神様からの希望を抱き、よみがえられたイエス様に信頼して歩んでまいりましょう。

『お見捨てになったのですか』
マルコの福音書 15章22節-34節
2008年 3月16日(日)

 23節を読むと没薬を混ぜたぶどう酒をイエス様はお飲みにならなかったことが書かれています。これはひどい痛みを和らげてくれるものでした。しかしイエス様はそれを拒まれ、苦痛をそのまま味わわれたのです。この苦しみは、罪に対する神様の怒りであり、それを一身に受けられるためでした。
 しかも、Uコリント5:21には「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」と書かれています。イエス様は無実の罪で罰せられているのではなく、有罪とされたというのです。神の御子であるお方が冤罪でも、無実の罪でもなく、最低最悪の罪人として刑罰を受けられたのです。ご自分が罪そのものとされたことを認め、その傷の痛みを味わっておられるのです。またこれは聖なるイエス様が罪となったご自分を徹底的に憎まなければならないということでもあります。
 34節に「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と書かれています。父なる神様にとってイエス様は憎むべき罪そのものとなられました。父なる神様はイエス様に全人類の罪を認め、イエス様を憎み、切り離し、お見捨てになられました。
 イエス様が人間としてただ一度も罪を経験されませんでした。しかし、この十字架の瞬間、イエス様はまさにそれを経験されているのです。それはイエス様が罪を犯したからではなく、ご自身を私たちの罪と一つとされ、罪そのものになられたからです。
 神様はイエス様をお見捨てになったのです。そしてそれは私たちのためでした。
 そしてそのことによって、つまり十字架によって、本来滅びるべき私たちが永遠の命を与えられたのです。ですからイエス様を見捨てられた父なる神様は、決して私たちをお見捨てになりません。
 私たちを救うために来てくださり、永遠の命を与えてくださったイエス様に感謝して歩んでまいりましょう。

『仕える人のように』
ルカの福音書 22章24節-30節
2008年 3月9日(日)

 イエス様はご自分の死の時がいよいよ来たと自覚した時、弟子達と最後の食事をなさいますが、弟子達は誰ひとりその十字架の死のことを理解しておりませんでした。イエス様が21節で「裏切る者」がいると告げると「だれなのか」と互いに論じ始めたのです。すぐその後を受けて今日の箇所です。本来なら、裏切り者を突き止めるのは大事な事ですがその追求は「この中でだれが一番偉いだろうか」という議論になっていったというのです。
 イエス様の弟子たちの間で起こった深刻な問題です。これは実に恐ろしいことです。そしてこれは、昔も今も変わらぬ私たちの問題ではないでしょうか。
 自分は間違っていない、自分は正しい、負けたくないという思いは一番になりたいという思いの一歩だと思います。これこそは、まさに弟子たちが抱えていた問題であり、古くて新しい問題、私たち自身が抱えている問題でもあるのではないでしょうか。
 イエス様はそのような弟子たちに25、26、27節の言葉を言われました。この言葉は世の常識とは逆のことです。「支配する」生き方でなく「従う」生き方、「治める人」であっても「仕える人」となりなさい、といいます。そしてイエス様ご自身が、そのように歩まれたのです。「自分が、自分が」と自分のことばかり考える私たち人間、自分が一番偉いのだと考えたい私たちのその罪をうち砕くためには、まず自分が死んで仕える生き方、仕える愛、命までの捧げつくす愛を示してくださったのです。
 私たちには、決してイエス様と全く同じように生きることはできません。しかし、私たちは「イエス様に似る者としてください」と祈りながら弟子たちがしたようにイエス様の後をついて行くことはできます。イエス様が示してくださった生き方を精一杯歩むことはできるのです。どうぞこのイエス様の歩まれた覚えてご一緒に歩んでまいりましょう。

『新しい契約』
ルカの福音書 22章14節-23節
2008年 3月2日(日)

 今日の箇所は聖餐式の元となった箇所です。聖餐式の起源は、イエス様と弟子たちとの最後の晩餐です。この最後の晩餐については、4つの福音書にすべて記されています。そして、福音書だけでなく、いつも聖餐式でお読みするTコリントのようにパウロの手紙にも記されています。これらのことから、聖餐式は、初代教会においても非常に重要なものであったことが分かります。さらに、現在も世々の教会において、この聖餐式は最も重要なものとして、守られ続けているのです。
 聖餐式で食するパンは、主イエス様のからだである、といいます。聖餐は神学が分かれている一つの大きな理由ですがカルヴァンは、「信仰をもって与る時にのみ意味がある」と言います。ヨハネ6:51でイエス様は「わたしは、天から下って来た生けるパン」だと言います。この命は死すべき命ではなく、神の国を受け継ぐ命、永遠の命、本当の命なのです。
 またイエス様は、この晩餐の杯は「新しい契約」だと言います。契約というのは、二者の間の約束です。新しい契約に対して古い契約とは、元々は神様とイスラエルとの契約でした。モーセを通してシナイ山で神様がイスラエルと結んだ契約です。しかし古い契約は破られました。イスラエルは、神様の戒めに従わなかったのです。しかし、神様はこれによって、人間を見捨てたのでなく、イスラエルだけではなく、全人類を救うために、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架を通して、新しい契約を立てられたのです。この契約は神様の側の一方的な恵みの約束なのです。私達は、ただこの救い主イエス様を信じるだけで、神様との契約の相手とされるのです。
 聖餐は私達に与えられた恵みです。パンを十字架でさかれたキリストの体、ぶどう酒をキリストの流された血と信じるだけで、新しい命に入れられるのです。どうぞこの新しい命、新しい契約の中をご一緒に歩み続けようではありませんか。