ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年4月]を短くまとめてのせています。

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『主が振り向いて』
ルカの福音書 22章54節-62節
2008年 4月27日(日)

 イエス様は十字架につけられる前日、イスカリオテのユダに先導された祭司たちのよって捕らえられました。このまま法廷に連れ出されるのかと思えば、そうではなく、まず大祭司の家に連れて行かれました。この大祭司の家でイエス様に対してどういう審問がなされたのか、ということは記されていません。
 ルカがここで注目しているのは、捕らえられたイエス様について行ったペテロにあるようです。イエス様が捕らえられた時、他の弟子たちは、逃げてしまったのです。しかし、ペテロだけは、「遠く離れて」ではありますが、イエス様に「ついて行った」のです。この「ついて行った」という語は、「従う」という意味の語ですから、最後の晩餐の席で言ったように(22:33)ペテロだけは逃げずにイエス様に従ったのです。しかし、人間の覚悟や決心は、どんなに堅いものであっても、弱いものです。この「ペテロの裏切り」は、そのような人間の弱さを示しています。そしてとうとう3度イエス様を否定してしまいました。しかし、いくら勇ましいことを言っても、人間は、本当は弱いものだ、ということをイエス様はよくご存知なのです。
 61節で「主が振り向いてペテロを見つめられた」とあります。どのような視線だったのでしょうか。たとえ死んでもついて来ると言ったのに裏切った、という咎めだてのまなざしだったのでしょうか。そうではありません。むしろ、赦しと励ましのまなざしだったのです。イエス様には最初からペテロの弱さが分かっていたのです。それゆえ、鶏が鳴く前に3度イエス様を否認する、と予告したのです。
 イエス様は私達の弱さを知っておられるのです。その弱い私達に代わって、主は十字架にかかられたのです。弱い私達も常に主の暖かい眼差し、そして祈りと赦しに支えられていることを覚え、この信仰生活を全うしてまいりましょう。

『暗闇の力』
ルカの福音書 22章47節-53節
2008年 4月20日(日)

 前回は逮捕される直前の祈りの場面、イエス様の「みこころのとおりに」との最後の祈りの場面でした。そして今回はその続き、イエス様の逮捕の場面です。
47節に12弟子の一人であるイスカリオテのユダがイエス様を裏切るために群衆の先頭に立って近づいてきたとあります。そしてイエス様はは48節で「口づけで、人の子を裏切ろうとするのか」とユダに声を掛けられました。イエス様はどのような口調でこの言葉をユダにかけられたのでしょうか。一つは裏切りの合図である口づけをしようとするユダへの非難の言葉と考えられます。しかしユダはこの後イエス様を売った報酬として銀貨を受け取りますが、12使徒という立場を追われ、自責の念にも苛まれ、結果として孤独の中で死んでいきました。つまり、そのユダのたどる結末をご存知でイエス様は哀れまれてこの言葉をかけたとも考えることが出来る場面です。
 さて、49節から51節までで一つの出来事が描かれています。イエス様を捕らえようとやって来た者達に弟子の一人が切りかかってその右耳を切り落としたが、それをイエスが制止した上でその者の耳を癒されたという出来事です。この癒しが十字架に架かる前のイエス様が最後に行われた癒しの奇跡でした。同じルカの福音書の6章27節以下で繰り返し「敵を愛しなさい」と弟子達に向けて語られていますが、正にその実践であると見ることが出来ます。イエス様は愛する弟子から裏切られ、だれもイエス様を理解する者はなく、皆イエス様に敵対するのです。まさに私達の姿として捉えることが出来ます。私たちが抱える闇の力です。しかしそれをイエス様は受け止めて十字架にかかり、よみがえってくださったのです。
何と素晴らしいことでしょう。「闇の力」に十字架によって打ち勝られたイエス様にしっかりと結びついて歩んで参りましょう。
 勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)

『みこころのとおりに』
ルカの福音書 22章39節-46節
2008年 4月13日(日)

 イエス様は、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(40節)と言われました。イエス様が弟子たちに十字架を前にして教えられたことは祈ることでした。イエス様の地上生涯最後の教えはまさにこの「誘惑に陥らないように祈っていなさい」だったのです。
 イエス様も苦しみの中で、ただ祈ることしかなかったのです。この時の苦しみについては、44節に「苦しみもだえた」とあります。これまで他の人の苦しみを拭い去ってこられたイエス様ご自身が苦しむのです。こんな弱々しい姿を私達はイエス様に期待しません。しかしこれはイエス様が決して超人的な方ではなく、私達と変わらない人間である、ということを表している(ピリピ2:6、7)のです。
 さて、イエス様はこのようにして、一体何を祈ったのでしょうか。イエス様はまず、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。これは試練を過ぎ去らせて下さいということです。
 ヘブル2:18には「ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」とありますが、イエス様は私達と同じ様になられたのです。しかし、その次に「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈っています。イエス様は、「私の思い」ではなく、「神様の思い、父なる神の意志」を求めているのです。
 私たちも、祈るときには「みこころのとおりに」と祈れるものになりたいと願います。しかし、この祈りは聖霊の導きと信仰、つまり全てをご存知である主が、私にとっての最善を示し導いて下さるという信仰なしには出来ない祈りです。ですから、その聖霊様の助けが与えられるように、信仰が与えられるように、繰り返し祈り求めましょう。また是非、単なる生活習慣ではなく、繰り返し「みこころのとおりに」と求めて祈るものに変えられたいと願いつつ、今週も歩んでまいりましょう。

『私達に足りない物』
ルカの福音書 22章35節-38節
2008年 4月6日(日)

 イエス様は弟子たちに向かって35節にあるように尋ねられました。これはルカ10:1-20で70人の弟子たちを派遣した場面と関連しています。弟子たちはありありとその時の記憶、つまり、足りないものは何もなく、悪霊どもでさえ服従させ、満ち足りた伝道旅行であったことを思い出したのです。だから、「何か足りない物がありましたか。」とのイエス様の問いかけにすぐさま「いいえ。何もありませんでした。」と答えたのです。
 私達に同じように問われるならばなんと答えるでしょうか。欲しい物は色々とあったことと思います。しかしどうしても「必要な物」はすべて与えられてきたのではないでしょうか。
続けてイエス様は36節で「今は、財布も旅行袋も、あるものはそれを持ってゆけ」といい「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」とまでいわれます。これまでの、ただイエス様のみ信頼して、主の言葉通り神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出したときのような装備とは異なる、これまでとは違う備えが必要だ、とおっしゃるのです。イエス様は「右の頬を打たれたら左の頬を」とか、「剣を持つ者は剣で滅びる」と語らないのでしょうか。37節で『彼は罪人たちの中に数えられた。』とあります。つまり「わたしはこれから十字架で殺される道を歩もうとしているからだ」というのです。イエス様ご自身が捕らわれて、殺される、そういう大変な時をこれから迎えようとするのだ、だから「備え」が必要だ、「覚悟」が必要だという意味で、財布や袋や剣が必要だというのです。
 今日のタイトルは、「私達に足りない物」です。主にあって足りない「物」は何もありませんが、イエス様に従う覚悟、心の準備が求められているのです。心のフル装備をして、覚悟してイエス様に従いましょう。イエス様の十字架の恵みにいつも立ち返って歩んでまいりましょう。その中でイエス様は、私たちに足りないものは何もないようにしてくださいます。どうぞこの道をご一緒に歩み続けてまいりましょう。