ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年5月]を短くまとめてのせています。

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『この人を除け』
ルカの福音書 23章13節-25節
2008年 5月25日(日)

 この箇所には、イエス様を十字架に追いやった三つ種類の人たちが出てきました。祭司長などユダヤの宗教指導者、ローマ総督ピラト、そして民衆です。そしてこれらの人々は、私達とは無縁ではありません。
 ユダヤ教の指導者たちは、イエス様を妬みましたが、この妬み心は私達にもあります。この世の権力者ピラトは、自分の保身のために、罪のないイエス様を十字架刑に処する決定をしましたが、私達も自分の保身ということを常に考えます。
 民衆は、よく考えもせず、人の悪宣伝を信じてしまいましたが、このような傾向は私達にもあります。つまりイエス様は、私達が神様から離れてしまったことを赦すために身代わりとして神様から除かれたということなのです。
 この出来事の中で一人の罪深い強盗バラバという人が登場(19節)しました。本当は彼こそが「除かれるべき」人物、十字架に架けられて死ぬべき人物でしたが、イエス様は彼のために代わって十字架につけられたのです。実は、このバラバは私たち一人一人の姿なのではないでしょうか。私のあのような強盗や人殺し、悪いことが何もしていない、と思うかもしれませんが、皆さんの心の中はいかがでしょうか。神様は実際の起こったことの背後にある私たちの心をご存知です。
 Tペテロ2:24に「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と書かれています。イエス様の死はむごたらしい悲惨な理不尽な死でした。それを覚えることは大切です。
 しかしそれを嘆きかなしむだけではなく、そのゆえに私たちは赦され、癒されたことを覚えることが大切です。日々喜び、この方に感謝し、信じ、従っていこうとすることが大切なのです。信じ、洗礼をうけ日々イエス様を覚えて祈り、賛美し、聖書のみ言葉をよみ、礼拝を捧げ、交わりを喜び、そして私たちの罪は赦され癒され永遠の命が与えられていることを覚えて歩んでまいりたいと思います。

『沈黙のイエス様』
ルカの福音書 23章1節-12節
2008年 5月18日(日)

 9節に目を留めると、「イエスは彼に何もお答えにならなかった」とあります。イエス様はなぜ沈黙しておられるのでしょうか。
 この沈黙の意味に思いをめぐらせて三つの理由があると思います。
一つ目は、真剣に聞こうというしない相手に対して沈黙しておられたということです。神様の前にへりくだって聞こうとするのでなく、ただ好奇心でイエス様と会ってみたい、珍しい奇跡を見たいという程度です。私達も自分の興味や要求に応えられない場合、価値のないものとして退けてしまうことがあります。そのような時、神様は沈黙をしてしまわれるのではないでしょうか。
 二つ目は、イエス様は父なる神様に任せたから沈黙されていたのです。イエス様はどんなに自分が正しいと思っても、自分を出すのではなく「神様に委ねる」態度を示されたのです。ピラトやヘロデは自己中心で自分の思いを遂げようとすることを第一としました。神様や、神様の義に従うのではなく自分の欲、自分の考えに従うのです。私達も同様ではないでしょうか。しかしイエス様は自分が無実であること、えん罪であることを主張せず、神様に委ね、イザヤ書の預言の通り、沈黙されたのです。
 三つ目は、赦すためです。ゲツセマネの園でご自分を捕らえに来た兵士たちに打ちかかろうとしたペテロにイエス様は御使いの軍団で滅ぼすことがおできになる方(マタイ26:53)であると示されました。沈黙されなかったら万物を滅ぼし、すべての人間が永遠の滅びに入れられていたかもしれませんが、イエス様は、滅ぼすことをされませんでした。
 三つの示されたことから、私たちは真剣に神様のことばに耳を傾け、全てにおいて自分を出すのではなく神様に委ね、イエス様が「赦し救うため」に沈黙され十字架にかかられたことをしっかりと覚えましょう。このイエス様を信じて信頼して、人生を委ねて、このイエス様に従ってまいりましょう。

『教会の産声』<ペンテコステ礼拝>
使徒の働き 2章1節-13,41,42節
2008年 5月11日(日)

 イエス様は復活から40日後、昇天されました。残された弟子たちは、エルサレムの泊まっている屋上の間で、みな心を合わせ、祈りに専念していました。恐らくイエス様の「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」との約束の聖霊を覚えて祈っていたのでしょう。この熱心な祈りは10日間続けられました。そして、イエス様が昇天されて10日後に、五旬節の日(ペンテコステ)に聖霊が与えられ、そこに最初の教会が産声を上げたのでした。
 私たちの教会、あるいはクリスチャンとして歩む一人一人が、産声を上げたばかりの教会の最初の姿から点検できることがあります。
 ・教えを堅く守り、みことばに親しんでいるか。(42節)
 ・交わりは豊かか。(42節)
 ・心を一つにして教会に集まり聖餐式や、祈りを捧げているか。(42節)
 ・好意をもたれるほどに喜びを持って歩んでいるか。(47節)
 ・悔い改める方が起こされ、バプテスマを受ける方が起こされ、罪のゆるし、聖霊の賜物をしっかり覚えることができているか。(38節)
 産声を上げたばかりの教会は純粋でした。もちろん問題がなかったわけではなく、むしろ多くの問題が次々に出てくるのです。しかし、私たちはここに一つのモデルとなる教会の姿を見るのです。私たちの教会、皆さんの信仰生活を定期点検するためにもこの聖書の箇所でしっかりと確認いたしましょう。
 そしてこれからも、神様を信じ、この教会を委ねて行きたいと思います。あのペンテコステの時に弟子達に降り注いだ聖霊様が私達にも降り注がれ、その聖霊様によって力づけられ、それぞれの遣わされている場において福音を告げ知らせる者、主からいただく恵みを証しする者として今週も歩んでまいりましょう。

『神の子の裁判』
ルカの福音書 22章63節-71節
2008年 5月4日(日)

 今週のみことばにもさせていただきましたがこの70節に注目したいと思います。
 まず「ではあなたは神の子ですか」という質問についてですが、マタイ16:16を見ると、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白をしています。「イエス様を信じる」というのは色々な意味がありますが、私達クリスチャンはイエス様を「神の子であり、救い主である」と信じているわけです。ペテロは素直な心でイエス様を理解してこのような告白が導かれましたが、イエス様を捕らえた人々はかたくなな心、否定的な思いで「神の子か」と尋ねるのです。信じよう、理解したいという思いでなければ、私たちを救うために来ていてくださったイエス様の本当の姿が分からないのです。
 更にもう一点、注目したいのは、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言う言葉です。ここの訳は新共同訳では「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」となっています。イエス様がご自身の事を神の子と認めたと言うことではなく、逆にイエス様が長老や祭司長達を、自らを神の子、つまり神と等しく義しい者としている事を告発しているということになるのです。彼らは神様からの律法を自分達の都合で捻じ曲げ、その捻じ曲げた自分達の価値判断を正しいものとして裁きだったのです。このように、私達人間は自分が正しいと考える時には他者を裁きます。そして、そこにはイエス様が教えられた、他者を赦し、互いの違いを受け入れ合う愛はないのです。
 私たちは「イエス様が神の子、救い主」であることを改めて素直に心に刻みましょう。また神様は悔改める時、どんな罪でも、たとえ神様のお一人子であるイエス様を十字架につけた罪でも赦して下さると約束されました。自己中心になってしまう私達ですが、この約束を信じ受け入れ、ともに励ましあいながら歩んで参りましょう。