ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年6月]を短くまとめてのせています。

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『正しい方の死』
ルカの福音書 23章44節-49節
2008年 6月29日(日)

 この箇所はイエス様が苦しみにあわれた十字架の死、受難の場面です。
 ついにイエス様は息を引き取りました。この光景を多くの人が見ていました。彼らはどのような思いで十字架につけられたイエスを見守っていたのでしょうか。
 ルカはここで3種類の人を挙げています。すなわち、47節で百人隊長、48節で群衆、49節でイエスに従って来た婦人たちです。彼女達の中には、最後の最後まで、イエス様は十字架の上から何か奇跡を起こすのではないか、と期待して固唾を呑んで見ていた人もいたでしょう。しかし何も起こらず、失望し、何の感動も起こらなかった、ただ呆然としていたという様子を表しているのかもしれません。
 しかしイエス様とは関係のない一般の見物人は、48節に「胸をたたいて悲しみながら帰った」とありますように、一種の感動を抱いたようです。そして、一番大きな変化のあったのが、百人隊長でした。
 百人隊長は、ローマ軍の厳しい訓練を受け占領地の治安のために遣わされていました。ローマに反乱を起こす者を取り締まり、反逆者は処刑していたでしょうから十字架の光景はよく見ていたものと思われます。しかし、このイエス様の死の光景を見て、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った、というのです。聖書にはこの百人隊長がこの後どのような人生を歩んだかは記されていません。しかしイエス様に出会い、ほんの数時間で変えられ、その死を真正面から捉え、「正しい方であった」とその思いを告白するのです。
 私達はイエス様の死を「正しい方の死」、つまり神の御子の贖いの死を自分のこととして捕らえるのか、それともただ見ている者になるのか問われています。私たちに約束された正しい方の死、十字架の恵みこそ、聖書が語る神様の愛です。
 私たちもイエス様に従っていく者として頂き、神様の愛を受け、この愛を信じて歩んで参りましょう。

『私を思い出してください』
ルカの福音書 23章39節-43節
2008年 6月15日(日)

 ゴルゴタの丘の上に三本の十字架が立てられました。イエス様を中心にして、左右に一人ずつ犯罪人が十字架にかけられました。一人は同じ苦しみの中にある人を口汚くののしります。しかしもう一人の男は、この最期の時に至って、自分の誤りを悟り、イエス様にすべての望みをかけたのです。
 前者の男には、自分の考えは間違っていない、間違っているのは相手だという思いが強く、イエス様は自分の考えていたキリスト像とは違うので、それをののしったのです。しかし後者の男は、「神をも恐れないのか」と言っています。すなわち、自分を絶対視するのでなく、神様を恐れているのです。そしてイエス様に対して、恐れの気持ちをもっています。また十字架の苦しみは当然の報いであると受け止めているのです。これが悔い改めです。自分が罪深い者であることを認めるということです。そしてイエス様と共に一番最初にパラダイス=天国にいったのは、この罪人だというのです。しかも彼は何か優れた悔い改めをしたわけではない、ただ「私を思い出してください」と言っただけなのです。
 この「私を思い出してください」というのは、心から相手を信頼し、自分を低め悔い改め、神様に素直に向き直る言葉です。詩編などによくある祈りの言葉です。そしてこの思いこそが、悔い改めの言葉であり、神の憐れみを求める心の底からの思いなのです。すなわち、この男は死ぬ寸前に心からの悔い改めをイエス様に述べたのです。そして、救いにとって、最も必要であり、唯一必要なのは、この悔い改めです。
 私たちも悔い改める、すなわちイエス様に信頼して歩んでまいりましょう。すでに悔い改め、信じているという方も、自分勝手な道、自己中心的な思いの中に浸ってしまっていないでしょうか。日々悔い改め続けているか、イエス様を信頼し続けているか、イエス様に従っているか、点検しながらご一緒に歩んでまいりましょう。

『父よ。彼らをお赦しください。』
ルカの福音書 23章32節-38節
2008年 6月8日(日)

 この箇所はイエス様が十字架にかけられたまさにその場面です。十字架上のイエス様が記されています。34節で「父よ。彼らをお赦しください。」とおっしゃいました。イエス様は十字架上で非常なる苦痛の中にありました。肉体的にだけでなくそれ以上に、精神的にも、非常なる苦痛でした。私達ならそのようなことに決して耐えられないでしょう。その苦痛は測り知ることができません。普通の人なら、こんな仕打ちをした人を呪い、自分の運命を嘆くでしょう。そういう肉体的、精神的苦痛の中にあったイエス様が吐いた言葉は、何と「父よ。彼らをお赦しください。」と言う言葉でした。
 イエス様が十字架にかけられた姿を多くの人が見ていました。そしてその中には、イエス様は神の子だと信じて、最後には何か奇跡を起こして助かるのでは、と期待していた人もいたでしょう。しかしイエス様は、期待通りの奇跡を起こさずに息を引き取りました。しかし奇跡が起こっていたのです。この「父よ。彼らをお赦しください。」という祈りこそ、人間にはできない奇跡としか言いようがありません。
 私達には成長が求められています。クリスチャンの成長とはキリストに似た者となっていくということです。イエス様の生涯にならって私たちも生きるということが求められています。しかし私達はイエス様が祈られたように「父よ。彼らをお赦しください。」と祈ることが出来るでしょうか。ステパノは私達と同じ人間ですが「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)と祈り、殉教の死を遂げたのです。
 敵を赦し、愛して生きられたイエス様にならって生きるということは至難の業です。しかし私たちにはできなくても、私たちを通して神様が働いてくださるのです。聖霊がそそがれたステパノはイエス様に似る者となったのです。私達もイエス様の十字架の豊かな愛に思いを向け神様により頼んで、イエス様と似た者とさせていただきましょう。

『むしろ自分自身のために』
ルカの福音書 23章26節-31節
2008年 6月1日(日)

 26節を見るとクレネ人シモンがイエス様の代わりに十字架を背負います。イエス様は十字架を背負い切れませんでした。これはイエス様にとって、大変屈辱的なことだったのではないでしょうか。イエス様は弟子達に、自分の十字架を負う(マタイ16:24)ように言われたのです。
 私たちは「十字架を負う」という時、すぐ英雄的な殉教の死のことを想像しがちですが、そうではないのです。大事なことは、その死ぬまでの道行き、歩み、重い重荷を背負って、ある時には人にあざけられながら、その屈辱を受け、重荷を負うて、生きていくということが大事だということです。十字架を担いきれなかったイエス様の姿のなかに、人間の罪のあまりの重さを知ると共に、それをシモンに担ってもらったイエス様の姿のなかに謙遜な姿を私たちは推察してもいいのではないかと思うのです。
 そんな中、27節以下が続くのです。ここでイエス様がエルサレムの娘たち、それはつまりは、私達に対してもですが、イエス様が十字架につれられていく姿をみて、「かわいそう」と嘆くよりは、自分自身の罪について、もっともっと厳しく見つめよ、終末の裁きのことを考えよ、そして自分の罪について嘆けということなのです。
 ピリピ2:12には「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」とありますが自分自身の罪を知り、日々悔い改めて、自分の罪と向かい合い、十字架を負う必要があります。そうしてはじめて、人の罪も、人の弱さも理解し、そして深く同情できる、イエス様が与えてくださった愛を発揮できるのではないでしょうか。タイトルは「むしろ自分自身のために」といたしました。イエス様の十字架を思う時に、私たちは自分自身の罪を何よりも深く知り、そして嘆かなくてはならないのです。まず神様の前に悔い改め、自分の救いをしっかりと自分のものにして歩んでまいりましょう。