ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年7月]を短くまとめてのせています。

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『心は燃えて』
ルカの福音書 24章13節-35節
2008年 7月28日(日)

 この聖書箇所は、エマオに向かう二人の弟子にイエス様がともに歩んでくださったという箇所です。気づかされることは、イエス様の復活に対して誰もが鈍かったということです。朝早く墓に駆け付けた女性たちも、その女性達から聞いた弟子たちも鈍い者たちでした。
 ここに二人の弟子が登場します。この二人は、いわゆる十二弟子ではありません。18節を見ますと、クレオパという名が記されています。このクレオパという人物は、聖書の他の所には出てきません。彼がどういう人物で、いつイエス様の弟子になり、その後どうなったのかも分かりません。このクレオパともう一人の弟子が復活のイエス様に出会うという体験をしますが、この二人の弟子たちは、実際にイエス様に出会っても、それがイエス様だとは分からなかったというのです。
 復活されたイエス様と共に歩みながら、会話しながら、それでもイエス様であると分からないのです。不思議なことです。でも、墓に駆け付けた女性たちもそうでした。あの弟子たちもそうでした。イエス様が復活されたということが信じられないのです。
 この二人の弟子は最初イエス様を目の前に見ていながら、それがイエス様だと分からなかったのが、それが「イエス様は生きておられる」という確信に至ったのには、二つの事柄があります。それはイエス様が聖書全体にわたって説き明かされた、ということと、パンを取って祝福して裂いた、ということです。これは、礼拝における説教と聖餐式を意味しているのではないでしょうか。私達も、礼拝の場において、すなわち、説教と聖餐式とを通して、復活の主との出会いを体験することができるのです。弟子達は32節で「私たちの心はうちに燃えていた」といいます。
 よみがえられたイエス様が、今日も私たちに近づき共に歩んでくださること、今日もみ言葉を説き明かすことによって私たちの心を熱くし共に歩み導いて下さることを覚え歩んでまいりましょう。

『生きている方』
ルカの福音書 24章1節-12節
2008年 7月20日(日)

 イエス様の空になった墓の場面です。
 この箇所から分かることは、イエス様の周りに居た弟子達や婦人たちでさえ、イエス様の復活を誰も信じていなかったと言うことです。そしてそれは、空の墓を見ても同じでした。イエス様の遺体がなくなった、この起こり難い事実を前にしても、弟子達でさえイエス様の復活を信じなかったのです。
 もう一つ分かることは、イエス様は確かに亡くなったと言うことです。イエス様の十字架と弟子達との再会の間には何のトリックもなく、ただ死と復活という事実の連続があると言う事です。それを墓に残された亜麻布が示しているのではないでしょうか。本当は死んでいなかったということではなく、また、新しい命として生まれ変わったということでもなく、あの十字架で釘打たれ、苦しみを受けられたイエスが復活したのだということです。
 さらにもう一歩進めて考えてみると、信じがたいことであっても、イエス様が復活されたことが事実であるとするなら、イエス様は今でも、この2008年7月20日のこの瞬間にも生きておられるということです。
 聖書は「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。よみがえられたのです。」(ルカ24:4-5)と語ります。これは私たちに対しても同様に語られているのです。
信じていない方にとっては「たわごと」かもしれませんが、信じるものにとっては、あのイエス様が今も生きておられ、日々私たちに関わってくださる、導いてくださる、共に歩んでくださるということなのです。信じるものにはそれが感じられその恵みを日々味わうことができるということなのです。なんという素晴らしい恵みなのではないでしょうか。
 この恵みを頂くべく、信じて歩んでまいりましょう。益々このイエス様に「生きている方」に信頼して歩んでまいりましょう。

『神の国を待ち望む』
ルカの福音書 23章50節-56節
2008年 7月13日(日)

 この箇所にアリマタヤのヨセフという人物が出てきます。聖書は彼をりっぱな、正しい人で、議員たちの計画や行動には同意せず、神の国を待ち望んでいた、と紹介されています。彼の態度、行動から学べることが三つあると思います。
 一つは、「小さなことでも忠実に」ということです。私たち一人一人が神様から与えられている環境の中で、自分なりに精一杯のことを主に捧げて行くときに、神様はそれらを用いてご自分の業を素晴らしく進めていってくださるのです。
 二つ目は「自分にできる事を精一杯行う」ということです。できない事を探して、できない事を嘆くのではなく、できる事を探してできる事を喜び、そして精一杯行うことが大切なのです。ヨセフは死んでしまったイエス様にただ、そのときに出来る、そして自分にできる事を精一杯のことをしました。
 三つ目は、「神の国を待ち望む」ということです。目に見える報いあるから行動するのではなく、神の国を待ち望んで、その神の国と神の義を第一として行動する時、それは神様から喜ばれるのです。
 誰にでも失望することはあるでしょう。イエス様は十字架上で亡くなりました。
 イエス様に期待していた人たちにとってはこれ以上ない絶望です。しかしヨセフは「神の国を待ち望んでいた」と紹介されています。失望している時こそ「神の国を待ち望む」のです。
 「小さなことでも忠実に」ということも、「自分にできる事を精一杯行う」ということもそうですが、何より私たちは「神の国を待ち望む」ということを忘れてはいけないのです。神様は決して私たちの期待を裏切りません。それどころか期待以上の事をなさるお方です。できる事を精一杯、忠実に、そしていつでも神の国を待ち望みつつ、神様に期待と喜びを持って、共に主に仕え続けて歩んでまいりましょう。

『隠れたしるし』
ヨハネの福音書 2章1節-11節
2008年 7月6日(日)

 この箇所は「カナの婚礼」と呼ばれるところです。
 イエス様が最初の栄光を現されたのは神殿でも、聖なる山の頂でもなく、身内の婚礼という世俗的でプライベートな場でした。イエス様は、遠いところで見守るお方ではなく、身近にいて、しかも私たちの生活の場にいて、家庭を祝福し、男女の愛や夫婦の愛を祝福し、私たちの新しい人生の門出を祝福してくださり、私達の祝い、喜び、楽しみを一緒に喜んでくださる、ということを意味しているのではないでしょうか。
 また11節には「最初のしるし」とあります。「奇跡」と言わず「しるし」と言われています。イエス様が水をぶどう酒に変えられたということは確かに奇跡です。しかしそれ以上に「弟子たちはイエスを信じた」とありますように、弟子たちに信仰が与える出来事でした。大切なことは、カナの婚礼での出来事の中の奇跡を見ることではなく、イエス様が救い主であるというしるしを見ることにあるのです。
 イエス様にそのような素晴らしい力があると信じていても、イエス様の姿も見えず、声も聞こえず、そのために、イエス様は自分のためには何もしてくれない、と思ったことはないでしょうか。今日のタイトルは「隠れたしるし」としました。このカナの婚礼でイエス様が助けてくださる時、祝福してくださった時にはそのしるしは隠れていたのです。
 私たちも、この世話役のように、イエス様の恵みを恵みと思わず、運が良かったとか、誰かのお陰であるということで終わってしまっていないでしょうか。あるいは手伝いの者達のように、この奇跡を知りつつも、ただ首を傾げるだけで終わってしまってはいないでしょうか。
 それらすべてのことは、実はイエス様の恵み深い御心によって起こっており、私たちに与えられているのです。イエス様の本当の素晴らしさを知り、愛を知り、イエス様に対する深い信仰が益々与えられるならば幸いです。