ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年8月]を短くまとめてのせています。

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『貧しさと豊かさ』
ヤコブの手紙 1章9節-11節
2008年 8月31日(日)

 ヤコブの手紙では貧しい者と金持という主題が繰り返し取り上げられています。 貧しいことは現実的な生活の中では、楽しいことではありませんし、それ自体が 神様の祝福だと理解することも簡単ではありません。しかし、貧しさの経験があ る人は、物を大事にすることを覚え、与えられていることを心から感謝しながら 生きられるようになるのです。
 ここで言う、富んでいるという人たちは、必ずしもお金持ちということばかりで なく、貧しい存在者たちを軽蔑し、自分を富ませることでいつでも夢中であり、 自己実現ということしか頭にない人たちのことです。2章や5章でも厳しい表現を していますが富んでいる人としてヤコブが警告を発している人は、弱者を軽蔑し 、賃金を踏み倒し、いじめ、自分だけは楽な生活をし、ぜいたくをしながら、生 きている人たちのことだということがわかります。
 ヤコブはここでイエス様のたとえ話を念頭に置いていると考えられます。それは ルカ12:15-21の箇所です。社会的には大成功した農夫です。しかし、彼は自分の ことしか考えていませんでした。自分の財産にしか興味がなかったのです。その ためだったら、人のことなどどうなっても構わない、そんな考え方、そんな価値 観で生活していたのです。さらに、自分のいのちでさえ、自分の富でどうにかな ると考えていたのです。イエス様は愚かな金持ちのことを「自分のためにたくわ えても、神の前に富まない者はこのとおりです」(ルカ12:21)と言っています。 富は人生の確かな土台を与えるものではなく、神様に生かされていることを自覚 し、感謝しながら生きることを教えています。また自分だけのことを考えるので はなく、他者への祝福のために生きているということを意識し、それを喜びなが ら生きることを教えています。
 神様を中心にしながら貧しさの中に感謝をし、富んでいるときにへりくだる、真 の意味で神様の前に富む者として、歩んでまいりましょう。

『神に願いなさい』
ヤコブの手紙 1章5節-8節
2008年 8月24日(日)

 前回からヤコブの手紙をご一緒に読み始めました。先週は迫害に遭って苦しんでいるクリスチャンたちに対して、最初から励ましの言葉を語っているというお話しをしました。その一つは試練と忍耐です。試練の中で試される時、私たちは試練そのものよりもそのことでパニックに陥り、もうだめだと考えてしまいます。 しかし、冷静さ、そして霊的洞察力としての知恵を持っていれば、その歩みは安 定するものです。ヤコブもその事を言っています。そしてこの知恵を神様に求めるなら必ず与えられるとヤコブは言います。
 これは根拠のない、ただの励ましではありません。「惜しげなく,とがめることなく」お与えになる神様の御性質は、イエス様が教えられた天の父の姿(マタイ7:7-11)なのです。ただし、その神様から知恵を授かるためには「少しも疑わずに、信じ て」(6節)願わなければならないといいます。この言葉もイエス様の教え(マタ21:21-22など)に基づいています。ここで「疑う人」とは、ただの疑い深い人の事を言っているわけではなく、自分の内側で神様に信頼する心とそうでない心の分裂や葛藤のある人のことです。また「二心のある人」とも表現しています。新共同訳聖書では「心が定まらず」とも訳されています。これは神様に対する信頼や忠誠が心 のすべてを占めてない、信頼しきっていなくて、神様への不信や不真実が混ざっている心の持主のことを表します。
 そういう人は「主から何かをいただけると思ってはな」らない、だから「少しも 疑わずに、信じて願いなさい」と教えるのです。私たちは自分自身をチェックしてみる必要があるのではないでしょうか。
 忍耐を支える力は神様からいただく知恵です。その知恵を、お与えになる神様に願う、しかも疑わずに・・・。
 このことをしっかり覚え、また、試練を通して経験させていただきながら、成長させていただきましょう。

『試練に会うときは』
ヤコブの手紙 1章1節-4節
2008年 8月17日(日)

 しばらくヤコブの手紙をご一緒に読んでまいりましょう。 クリスチャンとして生活していくとき、困難や試練、迫害は当然だとヤコブは語 っています。これはイエス様の教え(マタイ5:10-12など)の中にすでに明確に教えられています。迫害されていること自体がうれしい人はいませんし、できれば迫害を避けたいわけですから迫害を喜ぶという表現は分りにくいかもしれません。 実際的には「迫害の中で希望を持ち続ける」という理解がよいと思います。困難な中にあっても主にあって絶望しない、希望を持ち続けることができるならば、 幸いです。医学的にも笑うことは免疫力を高めるという研究があることは皆さん ご存知なのではないでしょうか。ましてや信仰を持って喜び、感謝し、賛美する とき、希望をもつとき、試練は乗り越えられるのです。
 3節に「試練が忍耐を生み出す」という表現があります。試練はそれはそれだけで終わるものではなくそれを通過することで、忍耐が生み出されるとヤコブは教えるのです。それが信仰も人格も練り上げ、苦難を通過したからこそ、成長し、神 様にまた一歩近づくことが出来るのです。
 今オリンピックが開催されています。オリンピックの起源はBC776年にさかのぼり ますがいつしか行われなくなり1896年、フランス人ピエールクーベルタン男爵によって近代オリンピックとして復活しました。そのオリンピックの父、クーベルタン男爵はこういいます。
 「人生の中で大事なことは勝利することではなく苦しむことである。本質的なこ とは勝つことではなく、よく戦ったかだ。」
 信仰も同じです。苦難が私たちの信仰を練り上げ、私たちに精神的な強さをもたらす役割を果たすのです。パウロも苦しみは、恵みとして与えられている(ピリピ1:29)と言います。そしてそれは完全な者となるための導きなのです。主に信頼し、どんな試練をも、どんな状況をも受け止めることが出来るならば幸いです。

『復活の主の証人』
ルカの福音書 24章44節-53節
2008年 8月10日(日)

 イエス様が「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」と言われたことは、「旧約聖書」は必ずすべて成就するという意味です。 そもそも聖書とはどのような書物でしょうか。それは、「わたし(=キリスト)」 について書いてあることである、と言っておられます。具体的には45-47節でイエス様がおっしゃっておられるように、キリストの受難、3日目のよみがえり、罪の赦しのメッセージが全世界に宣べ伝えられる、ということです。更に48節でイエス様は「あなたがたは、これらのことの証人です。」と指摘されます。信じ、救われるだけでなく、そのことに対する証人として生きることが求められているのです。今日のタイトルもここから付けさせていただきました。イエス様ご自身が 、この言葉によって、私たちに対して証人として生きることを求めておられるのです。
 そういうとプレッシャーや不必要な義務感を感じてしまう方もいらっしゃるでし ょう。しかし私たちが主の証人として歩むというのはもちろんそういうことではありません。
 52、53節にはイエス様との別れの場面ですが喜びと賛美があります。皆さんが、 皆さんしか出会えない人、大切な人に、大切で素敵な、よい知らせを伝える、イエス様の素晴らしさを伝えるということなのですから喜びなのです。 聖書を説き明かし、イエス様の素晴らしさを伝えるのは、状況や能力で出来るとか、出来ないとかいうようなことではありません。むしろ、生涯にわたって、いつでもどこでも復活の主の証人として生きていくことこそが素晴らしいことなのだと思います。
 私たちは2006年1月からルカの福音書に共に読んでまいりました。そのルカの福音書は私達にイエス様の素晴らしさを教えてくれました。ですから私達は喜んで復活の主の証人として歩んでまいりましょう。

『なぜ取り乱しているのですか』
ルカの福音書 24章36節-43節
2008年 8月 3日(日)

 この箇所はイエス様がよみがえってから弟子たちにその姿を現す場面です。先週ご一緒にお読みした箇所はエマオ途上のクレオパともう一人の弟子に姿を現したという場面でした。しかしはじめはそれがイエス様だとわからなかったというのです。
 この箇所もイエス様は突然現れます。37節を見ると、実際にイエス様が目の前に現れても、弟子達は驚き恐れたのでした。そこでイエス様がこういいます。38節「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。」ここが今週のタイトルの箇所です。これは当時の復活を信じない人々、見ても信じられ ない人々に対する言葉です。しかし厳しく責めるような言葉ではなく、信じない 者が信じることが出来るように叱咤激励をするような、励ますような言葉です。 なぜならその後、十字架にかけられた時の傷があるご自分の体を見せられたからです。
 その後、43節に焼いた魚を一切れ召し上がったことが書かれています。先週読ん だ聖書の箇所には、エマオに向かう弟子たちと共に「パン」を食されたことが記されています。
  ヨハネ黙示録3:20ではイエス様は私たちに、主イエスを受け入れるなら、共に食事をすると言っておられます。
 イエス様は、このように私たちの普段の生活の中に入ってきてくださり、私たちと親しく共に歩んでくださる、共に食事をしてく ださるのです。 今朝「なぜ取り乱しているのですか」とイエス様は問いかけます。皆さんの中で困難な中にある方いらっしゃいますか。今はそうでなくても、取り乱してしまう ことも日常の中にあることでしょう。しかしそんなときに復活したイエス様を見 出すことが出来るならば幸いです。そして私たちがもっとも一緒に食事をしたい 神の御子、救い主であるイエス様はともに食事をしてくださるのです。イエス様 からいただく平安、喜び、恵みが、いつも豊かにありますように。