ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年9月]を短くまとめてのせています。

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『信仰に富む者』
ヤコブの手紙 2章1節-7節
2008年 9月28日(日)

 前回まではみことばを聞くだけのものではなく「みことばを実行する人に」させていただきましょう、というお話をしました。
 ここから2章に入りますが、その1章の最後を受けるようにして最初のところで差別とえこひいきについての具体的な教えが書かれています。教会の中で問題を引き起こしていたことのひとつは、言葉による争い、そして、「金持ちに対する極端な優遇」という「えこひいき」が深刻な問題を起こしていたようです。
 残念ながら、社会には格差があり、差別が存在します。新約聖書が書かれていた当時、奴隷制もありそこには現代以上に明確な差別がありました。そういう背景の中で教会は、奴隷も主人も、男性も女性も横並びで神様を礼拝できる場だったのです。イエス様を信じた人達は、互いに神様の家族の兄弟姉妹という自覚が育てられ、そこには社会の格差の入り込む余地はないはずでした。
 しかし、いつの間にか、財力と社会的地位のある人たちが、自分たちの居心地を良くするために純粋な神様への礼拝の場を政治的な場、社会と同じシステムで機能する場に変えていってしまいました。
 誰でも軽蔑されずに、そこにいられる礼拝は大事です。文化による壁、伝統によ る壁、社会的通念からの壁、いろいろな壁を私たちは教会の中に造ってしまう危険性をいつでも持っています。共に礼拝し、祈り、聖餐に与り、御言葉を聴く場として、共に喜び共に泣くことが出来るお互いの関係を大事に出来る場としての教会にこそ神さまの祝福があるのではないでしょうか。そのような教会を建て上 げていくのは私達です。
 今日のタイトルは「信仰の富むもの」とさせていただきました。どうぞ私たちが この社会で貧しくても富んでいてもそれを教会に持ち込まず、信仰を富ませてくださるイエス様に信頼して、信仰の富むものとして頂きましょう。そのような者の集まる教会にさせていただきましょう。

『みことばを実行する人に』
ヤコブの手紙 1章22節-27節
2008年 9月21日(日)

 聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅く、みことばを心に蓄えなさい「みことばを 、すなおに」受け入れなさい、と勧めたヤコブは、続けて、みことばを行う人になりなさいと勧めています。
 ヤコブは、聖書の言葉を聞いて、福音を信じるということは、決して「知的に納 得する」というだけのことではないことを教えています。聖書を理解するためにさまざまな学びをすることは、とても重要なことです。しかし、知的納得だけなくみことばを信頼し、神様を信頼して自分の人生の歩みを進めることが大事だと言うのです。
 22節で「みことばを実行する人になりなさい」とありました。聖書はみことばを 実行せよとは言いません。それは実行することそのものが大切なのではないから です。みことばを実行することが命じられるとそれは義務的になり、律法的になってしまうということでしょう。ですから聖書は「実行する人になりなさい」と命じるのです。イエス様の教えと同じく、どうしなければならないかではなく、 どのような人にならなければならないかを強調しているのです。
 そのためには神様に求め他人に対してへりくだれるよう祈りながら、日々歩まなければなりません。それが「みことばを実行する」生き方の第一歩ではないでし ょうか。どんな状況の中でも、祈れることは幸いなことです。神様に知られてい る存在だからこそ、祈りは重要な心の拠り所になります。できることと出来ない ことを知り、罪を離れ、しかし社会に生き生きと生きる姿勢が必要なのです。
 どうぞみことばを聞くだけのものではなく「みことばを実行する人に」させてい ただきましょう。義務だからではなく、神様を愛し従いたいという思いを中心に、神様から目を離さず、イエス様を見つめ、みことばを素直に聞き、そのみことばに促されて、励まされて、「みことばを実行する人」として歩んでまいりまし ょう。

『みことばを、すなおに』
ヤコブの手紙 1章19節-21節
2008年 9月14日(日)

 ここまでヤコブは信仰生活の試練と忍耐を勧め励ましてこの手紙を書き始めまし たが、ここから、ヤコブは具体的な勧めを書き始めています。この箇所はこの最初の「御言葉をよく聞き,受け入れる」という部分です。
 信仰の基本は御言葉に聞き受け入れていくという部分です。ですからまず聞くことが大事だと語り始めます。ここでいう「語る」とは、教えるというニュアンスもあるようです。話せる人、教える人のほうが偉いという感覚がありますが、私 たちが本当に学習すべき姿勢は「しっかり、聞くこと、聞き取ること、尋ねること」だといいます。
 またその「聞くには早く、語るにはおそく」に続いて「怒るのに遅く」と書いてあります。怒りは人間として大切な感情表現です。怒ること自体が問題ではありません。しかし、「怒りは神の義を実現しない」という言葉を私たちは心にしっかり覚えておかなければなりません。私たちの怒りは、身びいきで、どこか自分 勝手だからです。怒りによって、罪を犯さないように、怒りと憎しみの連鎖を引 き起こさないようにという注意は心に留めなければなりません(エペソ4:26、27)。
 ヤコブはまず自分の内にある「すべての汚れやあふれる悪」を取り去ることを勧めます。それが、怒りを遅らせることになるのだというのです。それでは怒りを 遅らせ、汚れやあふれる悪を捨て、代わりに何を心に蓄えたら良いかというと、 ヤコブは「みことばを受け入れるように」と勧めます。みことばをしっかり心に聞き取り、「素直に」読み取ることが大切なのです。イエス様はどう教えておられるか聖書の言葉を読み教えらながら考え、「みことばに素直に」生活することが求められています。
 すでに聞いている御言葉を,怒りとは逆の柔和な心で素直に受け入れ、それを蓄 え、私たちの心を神様のみことばで満たす日々を歩んで参りましょう。

『いのちの冠』
ヤコブの手紙 1章12節-18節
2008年 9月 7日(日)

 すでに述べた試練と忍耐について再び取り上げています。「良しと認められた」 は、「試練の末に本物と認められた」という意味があります。
 「神を愛する者」は神の民のあるべき姿で、敬虔な者、神様に全幅の信頼を置い ている者と言い換えることが出来るでしょう。つまり試練を忍耐するとき、神様 への信頼なくしてはできませんし、また、神様を愛するものは試練を耐え抜くこ とが出来るという意味でもあります。
 「いのちの冠」は、最後まで耐え抜いて忠実であり続けた者に与えられる祝福のしるしで、私たちクリスチャンの希望は、その冠を頂くことで、その神様の約束をしっかりと握って歩み続けるものなのです。
 また17節では神様は「すべての良い贈り物」、「すべての完全な賜物」を賜るお 方だと言います。私たちの贈り物は、良かれと思っても相手の意に添わないこともあり、必ず相手にとって良い贈り物になるかどうか分かりません。しかし神様 は私たちの思いを越えて、私たちに必要な完全な、しかも、良い賜物を与えてく ださいます(マタイ7:1-11)。私たちにとって、何が最善なのか、何を今一番必要 としているのか、神様はそういうことをご存知で、それにふさわしい贈り物を私 たちに用意してくださっているのだと聖書は教えています。
 賜物をいただき、イエス様の言葉によって助けられ、励まされ、教えられつつ生 活できること、これは私たち一人ひとりにとって決して小さなことではありません。
 「いのちの冠」は本来私たちのようなものには与えられるものではありません。 私たちは罪があるからです。しかしイエス様の十字架によってその問題を解決し てくださっています。ですから私たちはその約束を信じてだまされず、試練を耐 え神様を愛し続けて歩むように励まされているのです。どうぞその励ましに応えていのちの冠を目指して歩んでまいりましょう。