ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年10月]を短くまとめてのせています。

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『天の故郷に』
ヘブル人への手紙 11章13節-16節
2008年10月19日(日)

 先にこの地上での生涯を終え、天の父なる神様の御許に召された方々を覚えたいと思います。
 今日、ここにある2枚の召天者の写真は、だんだん増えていくことでしょう。そし ていつか、もちろん私もこの写真の一人に加えられるでしょうし、写真の数は、 毎週礼拝に来られている人達の人数より多くなっていきます。そんなことを考えながら、天の故郷を思いますと、ぎやかなのではないかと思います。私たちは、いつも目に見えることばかりに目をうばわれて、見えないものに目を注ぐということを忘れてしまうのではないでしょうか。しかし、この先に天に召された方を 思うと目に見えない交わりを知らされるのです。
 13節に「地上では旅人であり寄留者であることを告白していた」とあります。神 の民のこの地上での歩みは、天にある完全な救い、救いの完成を求めての旅であると聖書は言います。全ての神の民の生涯は、この天の故郷を目指しての旅です 。神の民は、天の故郷を目指す旅人の群なのです。
 16節に「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした」とあります。 私たちには欠けがあり、弱さを持っています。しかし、神様はそのような私たちの神と呼ばれることを恥とはなさいません。私たちのつたない歩みの全てを、守 り、導き、支えて下さる、私たちと共にいて下さるのです。この神様が共にいて下さるということが、私たちの天の故郷への旅において、最も重要なことなのです。この主が共にいて下さるから私たちに平安があるのです。
 今朝、私たちが覚えて礼拝を守っている、先に天に召された方は、皆、今私たちが歩んでいる旅を最後まで歩み通し、輝きに満ちた天の故郷の都へと迎えられた 人々です。私たちも、それぞれ与えられた場において、天の故郷への旅を続けて参りたいと思います。

『行ないがないなら』
ヤコブの手紙 2章14節-19節
2008年10月12日(日)

 ヤコブはここでもまた、行いのない信仰の問題点を指摘しています。
 信仰に加えて行いが必要だといっているのではありません。本当の信仰には行いが伴っているはず、信じているのであれば、その証拠として「何がしかの行いによる証し」が見えるはずだというのです。
 私たちは、信仰と行いは何も対立するものと、誤解していないでしょうか。イエス様の十字架を信じるだけで救われるという恵みを強調するあまり、「救いに行 いはいらない」と救われた後も行いをないがしろにしてはいないでしょうか。当 時の教会にも同じ問題が起こっていました。
 ヤコブは15-17節で、具体的に援助、支援を提供することがなければ、隣人を愛す るということにはならないと指摘します。私たちに与えられた信仰は、イエス様が死に至るまでも神様に従い、私たちの身代わりとして裁かれる道を行いきって下さった恵みとして与えられたものなのです。その信仰は、隣人を愛し助けるも のなのです。ただ現代では教会の内外での状況は違い、「食物を与えるのではなく食物を手に入れる方法を教える」生活の自立支援こそ大事な要素なのかもしれません。
 ここで覚えなくてはならないことは、信仰と行いは切り離すことのできないものなのだということです。何かを行なおうとするとき、必ず信仰が関わり、その信仰が試されます。今日のタイトルは「行ないがないなら」といたしました。信仰と行いが切っても切り離せない両輪としたら、「行ないがないなら」信仰もないということになります。
 私たちはイエス様の犠牲と恵みによって救われました。信じるだけで救いは私たちに届けられます。信じると同時に、神様に従うことを始め、神様に反するものから遠ざかるでしょう。こうして信仰と行いは神様は喜ばれ、認められ、義とさ れるのです。
 信仰と行い、この二つの大切なものを偏りなくさらに、増し続けて、成長し続けるものとして歩んでまいりましょう。

『さばかれる者らしく』
ヤコブの手紙 2章8節-13節
2008年10月 5日(日)

 ヤコブは旧約聖書レビ19:18の戒めを、イエス様の律法についての教え(マタ22:34-40)
に基づいて「最高の律法」と呼んでいます。教会においても社会においてもクリスチャンの行動規範として大切に実行されるべきものだと言えるでしょう。 しかし、福音書を見ると、この教えは決してこれだけ単独で教えられているわけではありません。パリサイ派の人たちからの「律法の中でどの掟が最も重要か」 という悪意の質問がイエス様に投げかけられ、イエス様は、パリサイ派の人たちが毎日唱えている言葉(申命記6:5)を即答しました。しかし、イエス様はそれだけ にとどまらず「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒 めも、それと同じようにたいせつです。」と付け加えます。律法全体は「あなた の隣人をあなた自身のように愛せよ」という「最高の律法」の中に要約されます 。ですから、ヤコブはこの戒めを守るならば、すべての律法を全うすることになりますし、反対にどの戒めを破ってもこの「最高の律法」の違反となると言うのです。
 さて、12節から「さばかれる者らしく」というタイトルをつけました。「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、行い、歩む」というのはどういうことでしょうか。福音の恵みによってこれまであった律法から自由にされ、私たちに自由をもたらす本当に中身だけが問われるというのが「自由の律法」です。ここでは具体的に「憐れみ」と隣人に対して「愛を示す」ということをでした。もちろ ん心と中身が大切ですが、同時にそれを行うことをヤコブは示しているのです。 ですから私たちは、イエス様の御思いに従い、「憐れみ」をあらわし「隣人を愛し」で歩んでいくその思いをいつも大事にし、しかし失敗や、まずかったなと思 うときには悔い改め、謝罪し、赦していただきながら、終わりの日に「さばかれる者らしく」堂々と日々を歩んで参りましょう。