ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年11月]を短くまとめてのせています。

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『マリヤの賛歌』
ルカの福音書 1章46節-56節
2008年11月30日(日)

 アドベント、待降節と言われる週が始まりました。今朝は、マリヤの賛歌から考えてみたいと思います。マリヤにとって神様はどのように理解されていたのでしょう。
47節に「わが救い主なる神を喜びたたえます」とあります。私たちの神様は「わが救い主なる神」であると聖書は言います。救い主なる神様が、喜び、たたえる相手、礼拝の対象として側にいてくださるのです。また私たちの礼拝する神様は「救い主」だとマリヤは自覚しています。
 48節には「卑しいはしために目を留めてくださった」とあります。しかし私達は、神様に愛されるには有名なる、業績を上げる、高額な献金をするという感覚からぬけきれず、マリヤの告白を実体験してとらえられていないかもしれません。私達は私のことを目に留め、心に留めてくれるお方としてはの神様を必要としています。
 49節に「力ある方」と表現しています。神様は、ルカ1:37をみると不可能なことが一つもない、すべてを従わせることが出来る力をもっておられることがわかります。祈る時、「神様には出来ないかもしれないけど」と思っていないでしょうか。神さまの力は死んだ者をよみがえらせ、人を生かす力です。
 54節には「主はそのあわれみをいつまでも忘れない」とあります。神様は信頼する民との約束を破ることはありません。神様は私たちに対して誠実に応答してくださるお方だとマリヤは確信しているのです。神様は私たちにたくさんの約束、救い、恵み、祝福、導き、憐れみ、支え、助け、そして永遠のいのちと、今与えられる平安と喜びを与えようとしているのだと約束してくださっています。私達の神様は「どんな神様」でしょうか。
 どうぞこのクリスマスを前にして、神様イメージを確認し、さらに増し加えて、救い主イエス様の降誕の時を迎えましょう。

『ことばで失敗をしない人』
ヤコブの手紙 3章2節-12節
2008年11月23日(日)

 ヤコブは何度も「ことば」による問題を明らかにしています。 私たちはことばを何気なく使っていますが、それが相手にどのように伝わってい るのか、どのように聞こえているのか気をつける必要があるでしょう。ことばに振り回されてしまうことがありますし、ことばの不足による問題やことばが多すぎることからくる問題、ことばが強すぎる問題とことばが弱すぎる問題などもあります。
 私たちはこういうことについては、頭では理解しているつもりでいますが、実際問題としてなかなかその勧めどおりに生きることができません。つまり、私たちは素直に、自分の不完全さを認めなければなりません。自分も、その相手と同じように問題を起こす存在であるということを自覚することが大事です。その上で「ことば」で人を陥れたり、つまずかせたりしないように神様に守っていただく 必要があります。
 タイトルは「ことばで失敗をしない人」です。3:2に「ことばで失敗をしない人が いたら、・・・完全な人です」とありますが、これはほとんどありえないかのよ うな書き方にも感じます。しかしヤコブ1:4には「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、・・・完全な者となります」とあります。たしかに今は、私たちは皆多くの点で失敗をするものでしょう。そしてことばはその際たるものです。 しかし、その忍耐働かせ信仰や愛に行いを伴わせ続けて成長していくならば、そしてそれを神様に信頼しながら助けていただきながら歩むことが出来るならば「 完全な者」となっていくことができるのです。そしてことばにおいても注意し真 のことばであるイエス様に信頼し委ねて日々守っていただくなら、いつかことばにおいても制御することが出来る、「ことばで失敗しない人」となることが出来るのです。
 どうぞ日々イエス様のことばとイエス様に守っていただくべく祈りつつ成長させていただきましょう。

『神の国を受け入れる者』
ルカの福音書 18章15節-17節
2008年11月16日(日)

 教会に子どもたちが与えられているということは、本当に祝福であると思います 。どうして教会が子ども達を祝福するのかというとその由来が書かれているのが 、この箇所です。
 子ども達の両親達はイエス様にさわっていただこう、祈っていただこう、祝福していただこうとして御許にやって来ました。ところが、16節には「弟子たちがそれを見てしかった」とあります。弟子たちにとって、「子ども」は、神の国の妨げとは言わないけれども、役に立たず、教えも理解せず、わきまえもないなど、 「足手まとい」のような存在と感じていたのでしょう。しかしイエス様は、幼子 たちを呼び寄せて「神の国は、このような者たちのものです」というのです。この「子ども」は、おそらく3歳未満の乳飲み子、赤ちゃんといった方がふさわし いような子どものようです。そのような幼い子どもは、ただ「受ける」しかない 者であること、親から世話をされなければ一日たりとも生きてゆくことのできない者である、そういう子どもの無力さ、小ささ、弱さを指して、主は「神の国はこのような者たちのものである」と言われたのではないでしょうか。
 幼い子どもは無力です。ただ恵みを受けることによってしか、また、誰かを信頼することによってしか生きられないものです。しかし、だからからこそ、「おい で」と呼ぶ声に、ためらわずにやってきます。自分を抱いてくれる人の腕の中で、心も身体も命までも預けて、すやすやとやすらうのです。イエス様はそういう子どもの弱さ、小ささ、無力さを丸ごと、ご自身の御腕の中に受けとめ、祝福されました。そして、私たちに向かって、神の国はこのような者たちの国ですと言われ、そんな「子どものように神の国を受け入れる者」でありなさいと、呼びか けておられるのです。
 どうぞイエス様が求めておられる信仰、子どものように神の国を受け入れる信仰をもってイエス様の御腕に抱かれて歩んでまいりましょう。

『自分を高くする者』
ヤコブの手紙 3章1節
2008年11月 9日(日)

 イエス様の教えの中で一番厳しい言葉は、教師に対するものでした。マタイの福 音書23:1-12です。イエス様は、当時の宗教指導者たちの中にある深刻な問題、言葉と行いの不一致、義務の押し付けばかりの教え、名誉欲と高慢を厳しく糾弾し ています。そして最大の問題は、教えている自分が相手や他の人よりも上位にい る人間だと錯覚しているということです。だからヤコブも今日の箇所で「多くの者が教師になってはいけない」「教師は、格別きびしいさばきを受ける」というのです。
 ヤコブの言葉には、文字通り「教師になるな」というよりもむしろ教師としての慢心を戒めています。大事なのは先生と呼ばれるかどうかではなく「教える存在の私は偉い」という意識を持たないようにということです。また、言葉での教えには、不完全さがついてまわるので、細心の注意を払うようにということでもあるでしょう。そして相手より上に立つという意識の問題とか、ことばに注意する というということは、先生と呼ばれる立場の者だけでなく、お互いが注意すべき ではないでしょうか。
 イエス様は私たちよりはるかに高いところにおられる方なのに、私たちのところに、いや、私達より低いところに下られたのです。それはクリスマスの出来事が示しています。
 タイトルの「自分を高くする者」というのは低くされるのです。今週のみことばの意味は、高慢な教師は、格別きびしいさばきを受けるということです。このこ とを心にしっかり受け止めて、互いに仕えるものとして、相手を自分よりも高いものとしてお互いに関係を築きつつ歩んでまいりましょう。
 またそれだけでなく、今朝は、教師、牧師たちがその責任の重さを痛感しながらも、謙遜さを学び、キリストに学びつつ恵みの福音を大胆に語れるようにお祈りしていただけたら幸いです。

『行ないのない信仰』
ヤコブの手紙 2章20節-26節
2008年11月 2日(日)

 この箇所でヤコブは旧約聖書に出てくるふたりの人物を挙げて、信仰と行ないの双方の必要性を語ります。
 アブラハムは特別にすばらしい信仰を持っていたわけではありません。自分の身を守るために妻を妹と偽ったり(創12:10-20)、神様からの子孫が増やされる約束(創17:1-6)にも、そんなことは起こるはずがないと考えるのです。しかし、神様の約束の誠実さがあまりに圧倒的であり、神様からの祝福があまりにすばらしいので、アブラハムは、圧倒され、取り扱われ、信仰の父と呼ばれるまでになってい くのです。だからこそ、大事な息子イサクを連れて山に行き、彼を主に捧げるという行ないの伴う信仰となっていったのです。
 ラハブは城壁の中に家を持ち、エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候(せっこう=スパイ)をかくまい、彼らを窓からつり降ろし、彼らを助けました(ヨシュア2章)。彼女は、娼婦という社会的には極端に貧しく、辛い仕事をしていましたが、神様への求め、そして信仰を持って穏やかに受け入れ(ヘブル11:31)救われていくのです。恐らく神様に助けてもらわなければ、生きてはいけないという謙遜な信仰を土台にしていたのでしょう。
 この二人の信仰を見るとき、決して頑張って行うのではなく、神様の誠実さに圧倒されたり、神様を強く求めていたという必然がそこにあるのです。ですから私 たちは、神様の誠実さ、神様の約束をもっと丁寧に味わうことが大事ですし、神 様に求めてすがって歩んでいく必要があるのです。行ないの伴う信仰とは、行ないがないと悔いて躍起になって行動を起こしていくというのではなく、その行ないが自然と出てくるように、行ないが必然となる様な信仰なのです。もっと神様 の誠実さ、約束、十字架の愛、永遠のいのちの約束の恵みを、十二分に頭でも理解し、心で受けとめ、そして、応答していくことが出来るならば幸いです。