ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2008年12月]を短くまとめてのせています。

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『感謝、そして・・・』
ルカの福音書 17章11節-19節
2008年12月28日(日)

 私達は一年を振り返り感謝礼拝をささげます。クリスマスが終わって、なにか気が抜けたような、ついでにもう一度ある礼拝をささげに来ているとしたら大間違いです。私達は心を込めて、力をつくして、魂からの感謝をささげたいと思うのです。
 「感謝」は信仰者の本質であり、そして「感謝しないこと、恩を忘れること」は罪の第一歩(ローマ1:21)です。感謝はさらなる祝福を、次の感謝をもたらすのです。しかし不平や小言は、恵みを失うのです。私達はイエス様が与えて下さった 罪の赦し、そして永遠の命という大きな恵みに恩をしっかりと感じて、感謝をさ さげるのです。恩知らずにならないように神への感謝を忘れないようにしなければいけませんね。
 さて、ここで終わりではありません。私達イエス様を信じ信頼して歩む者は、神 様からいろいろなことを託されています。使命といっても良いかもしれませんし 、召命と言う言い方もあるでしょう。たとえば伝道も奉仕もそうです。一人一人が身近な方に、その方しか届かない一人にイエス様を伝えることが出来ますし、 イエス様はそのように望んでおられるのです。そこで大事なのは、宣教も祈りも デボーションも、感謝が動機となる時、本物となるのです。神様が私達に豊かな恵みを与えてくださったから私達は感謝して、そしてその神様にお応えしていくことが出来るのです。
 イエス様は感謝をし神様を崇めるために戻ってきたこのサマリヤ人に19節「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」とおっしゃいました。肉体の癒しに加え、魂の救い、そしてわきあがる力、神様に応答する 力をもお与え下さいました。
 新しい年は、この2008年の感謝を忘れずに神様に応答して行きましょう。そして私達一人一人が感謝し、賛美し、神様に応答して歩んでまいりましょう。

『王としてお生まれになった方』
マタイの福音書 2章1節-12節
2008年12月21日(日)

 東方の博士らはまずエルサレムのヘロデ王を表敬訪問します。このヘロデ王は被害妄想が強く、日和見主義であったためか人を信じることができず、人々にも軽蔑されていました。ヘロデの心は、権力欲、支配欲に支配され、自分の地位と名 誉にしがみつきながら利権や利得をむさぼり、傍若無人になっていくのです。 そんな中「ユダヤの王」として生まれたイエス様は一体どんな王だったのでしょう。イエス様は、それとは正反対の王でした。
 マタイ12章には15-21節を読むとイエス様は人々を慰め励まし癒しますが、「権力者」を感じさせません。しかもその素晴らしい業を人々に知らせないようにされるのです。「争うこともなく、叫ぶこともせず」とあります。確かに宗教指導者 との対決シーンはありました。しかし当時の宗教のあり方や形式そのものを変革しようとしたというよりも、その本質を取り戻そうとした、神様への真心からの信仰、愛を実践し、手取り足取り教えようとしたのです。そして「いたんだ葦を 折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とありますように、私達のわ ずかな希望をも踏みにじらない王、むしろ心に希望を与える王として来たのです 。
 また皆さんもご存知の様に、イエス様はろばの子に乗ってエルサレムに入場します(マタイ21:5)。これは謙遜と柔和を示す出来事でした。身近な存在であり、威張らない王なのです。
 そして、イエス様は苦難を担うお方として来て下さっているのです。その象徴は十字架です。私たちの身代わりの苦難でした。自分で痛みを担うことで他者を救 おうとする王。自分が犠牲になって身代わりに死に、民を救おうとしている王なのです。
 その王は私たちの王でもあります。だからクリスマスを祝う喜びがあるのです。 この私たちの王の誕生をご一緒に、こころより祝い感謝し賛美してこのクリスマ スを過ごしてまいりましょう。

『この方こそ主キリスト』
ルカの福音書 2章10節-11節
2008年12月14日(日)

 クリスマスとは「キリストの誕生を祝い礼拝する」という意味ですが、なぜ、キリストの誕生を祝うことが大切なことなのでしょう。 「キリスト」とは「油を注がれた者」という意味を持っています。古代イスラエルは預言者と祭司に油を注いだのですが、このキリストという言葉は特に王に油を注ぐ場合に用いられ、新しい王、ダビデのように国を統治する王の到来と結びつくことになりました。ローマの支配下にあった時代にはキリスト待望論が頂点に達していたようです。
 しかし、イエス様ご自身の働きは、政治的な解放運動でもユダヤ教改革運動でも ありませんでした。ルカ4:18、19には 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が 、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわ たしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるた めに。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」と書かれています。これらのことを実行するためにこそ、イエス様は来られたのです。
 私たちも多かれ少なかれ「キリスト=救い主」の様々な、勝手なイメージを持っています。たとえば、派手な支配者、何でも解決できる神秘的な存在などです。 しかし本物のキリストであるイエス様は、私たちの心のうちに住んで下さり、寄 り添ってくださる救い主として来て下さっているのです。社会のため、民族や国家のためというより、「私」のため一人一人の心の平安ための救い主として来てくださったのです。
 今日のタイトルは「この方こそ主キリスト」です。聖書は「この方こそ」と言い ます。私たちが勝手に描く救い主ではダメなのです。聖書がいう「この方こそ」 イエス様こそ私たちに必要な唯一無二のお方なのです。今朝、その事を確認して、神様が与えてくださった主、キリスト、メシヤ、救い主であるイエス様の誕生を感謝し、祝い、礼拝するこのときを、喜びを持って過ごせたら幸いです。

『ヨセフの信仰』
マタイの福音書 1章18節-25節
2008年12月 7日(日)

 ヨセフは自分には身に覚えのないマリヤの妊娠を知るところとなり、困惑します 。そして自分の方から、つまり自分の都合で婚約を破棄する方法をとってマリヤが軽蔑されることがないよういにしようと考えました。そこにヨセフの潔癖さと優しさがあります。
 そんなヨセフに神様は夢を通してメッセージを伝えました。ヨセフが字の読める人でなかったのではないかと考えられます。だから夢という方法で語ったのではないでしょうか。神様は私たちの夢の中で何かを語ってくださるのだと考えがちですが、この出来事はヨセフに起こった出来事であって、誰にでも起こることではありません。
 彼は夢の中のメッセージで思いとどまり、イエス様の誕生にまで至るのです。しかし、よく考えてみるとヨセフの目の前には厳しい現実がありました。ヨセフは自分の判断では、どうすることもできないような行き詰った状態だったのではないでしょうか。ヨセフの従順さがなければイエス様の命はありませんでした。そしてこのヨセフの従順はきわめて大きな代価を求められるものでした。彼らはリスクを承知で神様に信頼したのです。歴史の中で働かれる神様を信頼していまし た。ヨセフにとって信じる根拠は「夢での告知」「夢での促し」でした。しかし、彼はその小さな細い声に従いました。それは苦労の多い、先の見えない道でし たが、彼は神様を信頼し、リスクや人の目を気にせず、神様への単純な信仰を貫くのです。このヨセフの姿勢、ヨセフの信仰はクリスマスの時期に学ぶべき大事な事なのだと思います。
 どうぞクリスマスを待ちわびる日々、神様に自分のいのちと自分以外のいのちが 導かれていることの感謝、神様の愛と周りの人々への愛、そして、リスクや人の目を計算する信仰ではなく、単純で力強い神様への信仰。これらのことをもう一度点検して、クリスマスの喜びと恵みを増し加えて歩んでまいりましょう。