ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年01月]を短くまとめてのせています。

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『なすべき正しいこと』
ヤコブの手紙 4章13節-17節
2009年 1月25日(日)

 4章から「高ぶりの危険」ということが書かれています。ここでは「自分を過信する高ぶり」を取り上げます。
 ヤコブはここで、商売をして設ける人たちを例に挙げています。これは商売をする人が事業の計画を立て、利潤を追求することを否定しているのではありません。ここで問題にしているのは、それらの背後にある考え、思い、心、なのです。 つまり「あすのことはわからない」という人生の真理を無視して、未来のことも 自分の思い通りになると考える高ぶりの心にあるということなのです。この高ぶりに目を開かせるために、いのちは、霧がほんの短い間に消えてしまうようにはかないものであることを忘れるところに高ぶりの原因があると指摘しているのです。
 17節では「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」と言っています。この「なすべき正しいこと」とは何でしょうか。ヤコブは私たちには、それぞれに「自分のため」「他人のため」「神さまのため」 になすべき正しいこと、良いことがあり、しかもそれを知っているというのです 。
 自分でそれが良いとしていることも、誰かに寄り添い助けてあげることも、礼拝 も、賛美も、祈りも、献金も、奉仕も、それぞれ大事です。しかしそこにしっか りと正しい心が伴っていること、「主のみこころなら」という思いがいつもある か、とチェックしながらそれを行っていく、ということです。自分に過信せず、 むなしい、勝手な、傲慢な高ぶりに最善の注意をしっかりと払いつつ、信仰の歩みを続ける必要があるのではないでしょうか。いつも、いつでも神様により頼みながら「主のみこころなら、このことを、あのことをしよう」と「なすべき正し いこと」を忠実に歩んでまいりましょう。

『さばく者』
ヤコブの手紙 4章11節-12節
2009年 1月18日(日)

 4章から「高ぶりの危険」ということが書かれていますがこの箇所では「さばく高 ぶり」についてヤコブが警告しています。
 イエス様を信じている人の群れである教会に残念ながら、ののしりあい、悪口を 言い合う傾向が、昔からありました。私達は、自分と合わない人たちを軽蔑し、 悪口をいい、裁いたり、軽蔑したりすることがあります。そこには「裁きあう」 罪がひっそりと忍び寄っているのです。イエス様はこう言いました。山上の説教(マタイ7:1-5)で「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言い、「 『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか」と続 けます。これは裁きあうことの愚かさを教えています。
 ヤコブは、お互いに悪口を言い合うことを「律法を裁く」つまり神様の言葉を裁 く者だというのです。これは言い換えれば神様を裁いているということにもなる のです。隣人に対する高慢な態度が、神様への高慢な態度へと密接に関わってい くのです。この罪の大きさを知る必要があるでしょう。12節では裁くというのは、神様の座に自分を置くことと同じだとヤコブは言うのです。
 それでは、私達はどうしたらよいかと言うと、愛し合うことだと聖書は言います 。ローマ人への手紙でパウロは互いにつまずきになるもの妨げとなるものを置か ず、互いにキリストが死なれたほど神にとって大切な存在であることを認めなさ い(ローマ14:13-15)、と教えています。
 タイトルにあげましたような「さばく者」ではなく、この本当に裁くお方はお一人であり、その方が身代わりにいのちを投げ出すほどに愛してくださった私たち互いであることに目を向け、互いに愛し合うものとさせていただきましょう。

『へりくだる者に』
ヤコブの手紙 4章1節-10節
2009年 1月11日(日)

 この4章からしばらく「高ぶりの危険」ということが書かれています。
 3章の終わりのところでは「ねたみと敵対心」あるいは「利己心」ということを取り扱いましたがこの1節では、それより深いところに「欲望」という原因があることが明らかにされています。3節を見ると「快楽」という言葉が出てきますが、この言葉は1節の「欲望」と同じ言葉が使われています。他に情欲とか楽しみと訳さ れる言葉です。「世を愛する」ことは「世の友」を意味しますが、これは神を愛 することと反し、神の友となることの反対のことです。
 さて、7節以降のヤコブが示した、私たちに対していくつかの勧めをまとめたいと思います。
 ・神に従う=神様に服従する
 ・悪魔に立ち向かう=悪魔に反抗し、悪魔を拒絶する
 ・神に近づく=方向転換をして一歩ずつ神様に向かって歩む
 ・苦しみ、悲しみ、泣く=正直に罪と向き合い、真剣に神様と向き合う
 ・へりくだる=謙遜に生きる
 私たちにはこういう指針が与えられていますから、世の友として立ち続けている必要はありません。どんな状況からでも、悔い改め、やり直すことが出来るのです。
 ご紹介したこのヤコブの大切なお勧めですが、よく見ると6節の「へりくだる」と10節の「へりくだる」にはさまれた言葉です。だから今日のタイトルも「へりくだる者に」としました。
 ヤコブの具体的な勧めは、私たちがへりくだって謙遜に生きることの大切な要素なのです。どうぞへりくだって、神様に愛され、高められ、さらに恵みを頂くべく、共に歩んでまいりましょう。

『柔和な行ない』
ヤコブの手紙 3章13節-18節
2009年 1月 4日(日)

 ヤコブは知恵を「上から来たもの」と「地に属し、肉に属し、悪霊に属するもの」(15節)の2種類に分けています。
 地に属する知恵とは14節を見ると「苦いねたみと敵対心がある」知恵だとあります。「敵対心」を新共同約では「利己的」あるいは16節では「利己心」と訳されています。憎しみ、闘争心、非難、自分さえ良ければ、自分中心、分裂分派、自慢、嘘といったものが生み出されます。
 一方、上からの知恵とは、17節にあるように、純真、平和、寛容、温順、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものだと定義しています。
 さて、中心となる13節です。「知恵」について考えてきましたがこの知恵にふさ わしく「柔和な行ない」が求められています。イエス様も山上の説教の中で「地を相続する」(マタイ5:5)と語りました。この柔和という言葉には、「謙遜」とい う意味があります。謙遜は自分を低く評価すること、卑屈になることではなく、 過大評価も過小評価もせず、自分を知り、身の程を知り、分をわきまえるということです。自分の身の程を知っているとすれば、他人の必要を知ることができ、 その必要に以下に応えるべきかを知っています。しかしそういう心は、頑張って奉仕しても、頑張って聖書を読んでも身につきません。大切なのはイエス様が私 たちをどれほど柔和な心で受け入れてくださったか(マタイ11:28-30)か、どれほどの「知恵や分別」をもって私たちを取り扱ってくださったかをしっかり教えら れることです。
 地に属する知恵ではなく、いつもイエス様とつながって、上からの知恵を頂き続 けて、見せかけではなく、寛容、憐れみ、そして平和を備えたものとして歩んでまいりましょう。