ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年2月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


『祈り、賛美しなさい』
ヤコブの手紙 5章13−18節
2009年 2月22日(日)

 ヤコブはこの書の終盤で、主が来られるまで収穫に期待しながら、忍耐して「さばきの主」を待つその忠実に歩む態度を勧めています。
 今日の箇所では、祈ること、賛美することを勧めます。特にここでは祈りについて、主が来られる時を待ち望みつつ生活していく中で経験する苦しみや病、また罪を犯すことの故に祈りが不可欠であることをヤコブは教えているのです。祈りとは、自分の心の痛み、喜び、期待や辛さなどを言葉で神様に伝える作業です。
 神様がすべての問題解決の力を持っているからです。また、神様にその思いを聞いてもらえることで私達の心が軽くなることも事実でしょう。神様は「神のかたち」に人を創られましたが、それは私達を交わりの対象として、その人格、神様と対話する者として創られたのですから、私達は誰かに話せるだけで、いや創造主なる神様に話せるならばそれだけで重荷を軽く出来るのです。さらに祈るだけではなく、誰かに祈ってもらう、そして16節のように、互いに祈り合うようにと教えています。
 賛美は、祈りと同じ部分があります。私たちの思い、感謝を神様に表わし、他の人とも言葉を合わせて心を天に向けることが出来るのです。賛美によって私たちの感謝や喜びもまた増し加えられ、新鮮なものになり、次々に湧き上がってくるものなのです。
 17節で「義人の祈り」の代表としてエリヤが出てきますが、ヤコブは、私たちと同じような人だというのです。つまり「義人」とは信じて祈るもの、信仰を持って祈る者であるといえるでしょう。人に力があるとかその人の祈りに力があるということではなく、それを聞かれる神様に力があるのです。信じて祈りましょう。賛美しましょう。そして祈り合いましょう。どうぞ祈りと賛美の生活を歩んでまいりましょう。

『誓わないように』
ヤコブの手紙 5章12節
2009年 2月15日(日)

 ヤコブは「さばきの主」を待つ姿勢として、「誓ってはならない」と教えます。 私たち日本人は誓うと言えば結婚式くらいではないでしょうか。
 結婚カウンセリングで、誓いについて「聖書では誓ってはならないと書いてありますが、これは守れない誓いは裁かれることになるからという意味で、それでも 誓うのはどんな理由であっても、絶対に破ってはならない誓いをするという重大な意味があるのです」とお話しをしました。
 軽はずみに誓うことや、あるいは誓いそのものにこれは守らなければならない、 これは守らなくてもいいというような、誓いに軽い重いをつけるようなことを戒めています。私たちの歩みの中においても、たとえば子供との約束を軽視する親であるとか、相手によって約束の重さが違うようなことがあるではないでしょう か。しかしここですべての言葉はあらゆるものの創造者である神の前に語られることであって誠実なものでなければならないということになるでしょう。つまり これは語るすべての言葉に関して、やがてさばかれることを常に覚え、誠実に、 責任のとれることだけを語るように勧めているのです。
 当時の教会の実情は、迫害下、ギリギリの精神状態であったようです。私達も様 々な精神状態、信仰状態の時があります。ただ、ヤコブはここで、どんな精神状態、どんな信仰状態でも、「はい」は「はい」「いいえ」は「いいえ」と答えら れればいいのだと教えています。
 ヤコブは、謙遜で誠実な歩み、言葉への注意、忍耐して「さばきの主」を待つというその態度、その歩みを実践し実行しながら、失敗してもすぐに悔い改め、「 さばきに会わないため」の歩みを日々すごしていくことが大切です。どうぞ今週も、主により頼んで誠実に歩んでまいりましょう。

『心を強く』
ヤコブの手紙 5章7節-11節
2009年 2月 8日(日)

 ヤコブ書は、いよいよ終盤に入ります。 「終わりの日」を意識して生きることはとても大切なことです。怠惰な日々を過ごし、何もせず、終わりの日を待つということではありません。人生を有意義に生きるための秘訣は、実りを期待して、精一杯生きることです。ヤコブは具体的な歩み方を示しています。
 「つぶやき合わない」つぶやき合うのではなく、互いに徳を高めあうこと、愛を もって互いに交わることが大事です。言葉が互いの問題にならないようにするという警告でもあります。やがて主のさばきの前に立たされることを覚えると、兄弟をさばいて不満をぶつけ合うことに打ち勝つことが出来るのではないでしょうか。
 「預言者たちの忍耐を思い出し模範とする」預言者たちの忍耐とは、神様からのメッセージが理解されず、誤解され大変な苦労をしながら神の言葉を語り続けたということです。最大の預言者であるイエス様の苦難と忍耐を思い、イエス様を模範として歩んでまいりましょう。
 「ヨブの出来事を思い出す」ヨブの出来事というのは、理不尽な出来事の中で、最終的に神様からの祝福を勝ち取ったという出来事です。肉体的、物質的な回復だけでなく、それよりも大切なのは、さらに深く神様を知るに至った(ヨブ42:1)ということでしょう。
 私たちの神様は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方です。だから期待して、「心を強く」精一杯歩み続けるのです。私たちの人生、これからもまだまだ色
々あるでしょう。しかし私たちが慕い頼るお方は慈愛に富み、あわれみ深い方なのですから、私たちは主に頼りつつ、耐え忍び、心強くし、待ち望んで、期待して主の望まれる歩み、主に喜ばれる歩みを、ご一緒に歩んでまいりましょう。

『悲惨を思う』
ヤコブの手紙 5章1節-6節
2009年 2月 1日(日)

 富の高ぶりについてです。富んでいることで傲慢になったり信仰が危うくなるというような問題が起こりやすいことへの警告です。
 まずは富が有効でない世界がある(2、3節)ということです。しかし私たちは、それを知っていても、富が有効ではない世界はわずかしかないと思ってしまってい るのではないでしょうか。むしろ、富が有効ではない世界の方が私たちにとって大きく、重要であるということを意識していなくてはなりません。最も大切なこ とは神様の前でもお金は役に立たないと言う認識です。
 次に問題になるのは平気で不正を行うようなる(4-6節)ということです。人間の心 は簡単に悪の影響を受け、平気で人を踏みにじることができますが、お金持ちのほうがより簡単にその力と影響を行使できるのです。また人生の目的を快楽にふける、自分の心を太らせることとしてしまうことも危険です。
 タイトルを「悲惨を思う」としました。私たちは神様のことば感謝と喜びをもって聴くと同時に、「悲惨を思って」聴く必要のある言葉があります。もちろん、 その悲惨に陥らないようにするためです。
 私達は金持ちになることの危険、富の誘惑の影響に気を付け、いつも「金持ちの悲惨」を覚えておく必要があります。Tテモテ6:9には「金持ちになりたがる人た ち」の誘惑とわなについて書かれているので金持ちでないからということでこの言葉を軽視することも出来ません。
 富の高ぶりは私たちに関係ないことでも、危険性の低いことでもありません。「 悲惨を思って」誘惑とわな、滅びと破滅、愚かで、有害な多くの欲と高ぶりに注意を払うことが大切です。この神様からの言葉を自分のこととして受止め、主に導かれて、救いへと導かれてまいりましょう。