ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年3月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


『神の作品』
エペソ人への手紙 2章1−10節
2009年 3月29日(日)

 エペソの2章に入ります。2章には、教会を構成する人がどのような生活から救われて、どのような使命を与えられているかが記されています。
 1-3節には、エペソのクリスチャンが、救われる前にどのような生活を送っていたかが記されています。私たちが、どんな生活から救われたかを忘れないということはとても大切です。
 救われる前の私達は霊的に死んでいたものであったといいます。たましいに喜びがなく神様に感謝することも出来ない状態です。またそれは世の流れに従ってい た状態です。周りの目が気になり、集団心理にとらわれ「この世の流れに従う」 ということで安心する、それに合わせることでしか満足や安心を得られない状態 です。それは正しいことではありません。「何が正しいか」ではなく「回りはどうか」が基準だからです。
 また、その状態は悪霊に従っていた状態、あるいは欲望のままに生きていた状態 であり怒りを受けるべき存在であったと続きます。神様に背を向け、罪人として、神様の怒り、裁きを受けなければならないような存在だったのです。
 4節に「しかし」とあります。4-9節は救われた現在の状態です。救われた状態は神様のあわれみと愛と恵みに満たされ、聖霊の助けによって、イエス様を救い主と信じる信仰が与えられたというのです。
 そして「私たちは、神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られた」といいます。イエス様によって新しく造られ(Uコリント5:17)神様の御旨に従って歩むことが意図されているということを是非心に刻みましょう。救われたことに感謝し、主の栄光のために日々を歩ませていただけたら幸いです。

『神を知る』
エペソ人への手紙 1章15−23節
2009年 3月22日(日)

 エペソ人への手紙の3回目です。ここには、パウロの、エペソの人々への祈りが記 されています。エペソの教会の会員一人一人の顔を思い浮かべながら、書いていたのでしょう。
 パウロはまず「あなたがたの信仰」の故に感謝をささげるといっています。ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、信仰を持ち誠実に歩んでいることに感謝をし ているのです。また、エペソのクリスチャンが「すべての聖徒を愛する」方々であったことにも感謝しています。愛することは、たやすいことではありません。 エペソの教会が信仰と恵みと愛に溢れた教会であったことを教えられます。私たちの教会も、エペソ教会のように、信仰と愛にあふれた教会となるべく、歩ませていただいものです。
 パウロは、エペソのクリスチャンに感謝を表明してから、次に、エペソの教会のためにお祈りをささげているのです。17節は今週のタイトルの箇所であり今週のみ言葉の箇所です。神様は無限のお方です。神様を私たちの有限な頭で知ろうとしても、困難です。信仰生活を一歩一歩進んでいくうちに、だんだんと分かってくる面がたくさんあります。天国に行かないと分からないこともたくさんあるのではないでしょうか。私達の信仰の歩みとは、知恵と啓示の御霊によって、神様 をもっともっと知り続ける生涯であるといえるでしょう。
 ですからさらにキリストのからだの部分として、頭なるキリストにしっかりと繋 がって歩ませていただき、心の目が開かれ、更に神様の御心を知り続け、更に神 様を知るものとさせていただきましょう。神様は、必要な恵みを与えてくださいます。パウロの祈りが、わたしたちの教会にも成就するように、主を見上げて主にあって成長してまいりましょう。

『御国を受け継ぐ者』
エペソ人への手紙 1章7−14節
2009年 3月15日(日)

 7節に「贖い」と出てきます。贖いというのは、辞書的な意味は、「お金や品物で、罪や失敗の埋めあわせをする」商業用語で「買い戻す」という意味です。私たちは、罪の奴隷となっていましたが、イエス様は十字架にかかって、代価を払い 、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。これが聖書の「贖い」の意味です。
 「贖い」とは、まず罪の赦し(7節)だと言います。イエス様の十字架の血によって、私たちが過去におこなったすべての罪が赦されたのです。それから9節にあるよ うに、このことは神様のご計画であったことを私達に示してくださいました。私たちは、イエス様の十字架を通して、神様の愛とご計画を示されたのです。
 ではなぜ「贖われた」のかというと、10節を見ると「一つに集められる」ためでした。この「贖い」によって違いや対立を乗り越えて、キリストにあってひとつとされるというのです。それに11節に「私たちは、彼にあって御国を受け継ぐ者 となったのです」とありますが、イエス様を信じるものは神様の子どもとされる と約束されています。この特権の一つは、遺産を相続できることです。
 しかもそれは聖霊による証印(13-14)がおされている、という保証までしてくださ って、喜び、つまり、聖霊の働きにより、罪を赦された喜びが与えられているのです。
 私達はそんな資格はないのに「御国を受け継ぐ者」としてくださいました。それはとんでもない、はかりしれない、驚くべき恵みであることを覚えましょう。そしてどうぞ、イエス様を信じて救われていることがどんなに祝された特権であるかを感謝しつつ、この一週間を歩ませていただきましょう。

『讃えるため』
エペソ人への手紙 1章1−6節
2009年 3月 8日(日)

 エペソ人への手紙をご一緒に読み始めたいと思います。
  この手紙の著者パウロは、父なる神を高らかに賛美して (3節)この手紙を始めま す。彼は「天にあるすべての祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と 言います。「天にある」とはエペソ書のキーワードの一つですが、地上ではない 、特別な場所です。私たちは、神様のすべての祝福をいま全部理解することはで きません。私たちが理解できる祝福などはたかが知れています。つまりはかり知 れない特別な場所である天にあるすべての祝福を私たちにくださったから賛美をするのです。
  続けて父なる神様は、永遠の始めから、私たちを選んでくださったとパウロは記 しています。愛の神様は、イエス様の十字架の業を通して、救いの業を実現し、 完成してくださいました。ですから、私たちは「キリストによって選ばれた」の です。またこの選びは、「ご自分の子としようと定めておられた」という意味の 選びでもあります。神様の子どもにされることは、すばらしいことです。神様の 子供とされるということは、いうまでもなく親しい関係になることを意味します 。そして多くの良いもの、善なるもの、素晴らしいものを与えてくださり、つい には神様の祝福のすべてを受け継ぐ者となるということなのです。
 では何のために神様は、私たちを選んでくださったのでしょうか。6節には「ほめ たたえられるため」であると言います。口語訳や新共同訳では「わたしたちがた たえるため」と訳されています。
 私たちがそれぞれの場で、私たちの存在とことばと行ないを通して神様の栄光の ために生きることが、神様のはかりしれない恵みに応答する手段です。神様によ り頼み、神様の栄光が讃えられるため歩んでまいりましょう。

『迷いの道から引き戻す者』
ヤコブの手紙 5章19−20節
2009年 3月 1日(日)

 実戦的な書として読んでまいりましたヤコブの手紙の最後です。
 これまでヤコブはこの手紙の中でクリスチャンたちに対する具体的な注意事項をたくさん書かれておりとても実戦的な書としてご一緒に読んでまいりました。イエス様に対する信仰の真理についての思い違い、また特に信仰生活上の誤りや罪についての具体例を挙げ、迷いの道から引き戻すための書でした。そしてまさに、最後で書かれているように真理から迷い出た者、迷いの道の中にいる者を連れ 戻すためにこの手紙を書いてきたのですが、最後に読者に対しても同じことをするように勧めるのです。このヤコブ書はまず私たち自身に向けられていますが、 次には私たちの身の回りの人がこのヤコブ書が薦めるように歩むために助け励ます者、連れ戻し、引き戻す者となることを教えるのです。
 ヤコブの手紙は一見、何のあいさつの言葉もなく唐突に終わるように見えます。 しかし原文での最後の言葉は「多くの罪をおおう」となっています。多くの罪を 厳しく指摘し、責めてきたヤコブですが、しかし「多くの罪をおおう」という厳しさの中にある本当の愛に満ちたヤコブが伝えようとした意図を感じます。この箇所の背後には,1匹の迷い出た羊を捜し求め連れ戻す羊飼いのたとえと、罪を犯した兄弟を悔い改めに導くことについてのイエス様の教え(マタイ18:12-17)があるようです。真理から迷い出た者を連れ戻す働き、迷いの道から引き戻す歩みという使命は私たちすべてに与えられています。
 これを読む私たちが「連れ戻し」「引き戻し」「救い出し」「多くの罪をおおう」者として歩むんでまいりましょう。どうぞ、この素晴らしい使命に歩むために
、私たち自身の歩みを省み、また励ましに応えて歩んでまいりましょう。