ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年4月]を短くまとめてのせています。

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『神に近づく』
エペソ人への手紙 3章1−13節
2009年 4月26日(日)

 3節に奥義とあります。神様は何千年も前から、聖書を通してこの奥義を徐々に明 らかにされてきましたが、イエス様の十字架の御業を通して、その救いのご計画を完全に明らかにしておられるのです。パウロはそのイエス様を信じる信仰によって神に近づくことができると言います。
 このタイトル「神に近づく」をその言葉だけで読むと二つの捉え方があります。 一つは人間が「神のようになる」、「神に近いものになる」という意味です。もう一つは「神様のお側に近づく」、「神様のところに歩み寄る」という意味です 。極端に言うと「神様の側近になる」という言い方になるでしょうか。この箇所では後者の意味です。神様から遠く離れていた私たち、罪深さのゆえに神様に近づくことの許されない私たち、その私たちが主イエス様の恵みのゆえに、神様に大胆に近づくことができる、側にいさせてくださるのです。
 本来近づくことが出来ない、王であり、最も偉い、全知全能ですべてを治めてお られる神様に、何を言っても許される、自由に語ることが出来る、自由に願い、 祈ることが出来る、それを聞いてくださる・・・神様に近づくことが出来るというのはそういうことなのです。
 パウロは、このエペソ人への手紙を書いた時、ローマの獄中生活という厳しい状況にありましたが、エペソの信仰者を「落胆しないように」(13節)と励ましまし た。私たちの生活にも困難や試練がやってまいります。また今その中にいらっし ゃるかもしれませんが、神様は、その栄光を現わし、すべてのことを働かせて益 としてくださるお方です。この神様に大胆に祈り、神様に近づける幸いを覚え、 信仰を持って歩ませていただきましょう。

『神の家族』
エペソ人への手紙 2章11−22節
2009年 4月19日(日)

 11節に「あなたがたは肉において異邦人でした」とありますように、エペソのクリスチャンの大部分は、異邦人の背景を持っていました。
 ユダヤ人の間では、割礼は神様に属することを証する手段として、割礼が施されていました。そして割礼がなければ神の民ではなく、ですから異邦人は神を知ら ない民でもあったのです。もちろん多くの異邦人にはメシアの到来のことも知ら されてはおらず、キリストを待ち望んでいる人も多くありませんでした。エペソのクリスチャンは、キリストの約束からも遠く離れた者だったのです。そしてそ の故に神もなく希望もない生活でした。これはエペソの教会の人々だけでなく、 私たちも神なく望みなく人生を歩んできたのです。今、神様を信じさせていただいているということはすばらしいことなのです。
 13節は「しかし」ということばで始まっています。「以前」と「今」が対比され ています。ここからは信じ、クリスチャンとされ、神様と和解した後の祝福についてです。
 神様との和解は、イエス様の十字架によって成し遂げられました。そしてその和 解は神様とのものであるだけでなく、私達の互いの和解でもあります。この箇所に「2つものを1つにする」という表現が複数回、出てきます。これは、エペソ教 会にとっては、ユダヤ人と異邦人の和解と一致を示しています。イエス様は、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、どんな人であれ、父の御もとに近づくことができ るようにしてくださったのです。そして和解は一致をもたらすのです。それは私 たちが「神の家族」とされているということなのです。イエス様の十字架によって救われた恵みを覚え、心の一致をもって、家庭の中で、教会の中で、神の家族 の中で歩ませていただき、成長させていただきましょう。

『平安があるように』
ヨハネの福音書 20章19−31節
2009年 4月12日(日)

 イースターおめでとうございます。
 イエス様はよみがえられました。弟子たちはこの知らせを聞きましたが、まだ半 信半疑でした。そこに、戸が閉じられて鍵も掛けられていましたがイエス様が来られ、突然彼らの真ん中に立たれて、「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。弟子たちは、主を見て喜び、どん底から喜びの中に引き入れられ たのです。
 この「平安」は一般的な挨拶や、心配や争いがない状態、悲しみがないというこ と以上の意味が込められています。「〜でない」という消極的な平安ではないのです。あるいはあの時より安心とか、今日はまだ穏やかな方だとかいった比較的なものでもありません。世が決して与えることのできない平安です。よみがえら れ、いのちの限界を超えた、死を突き破った平安です。聖書が語る平和、平安は、「神との正しい関係」を中心に積極的、絶対的な平安であると教えられています。
 「平安があなたがたにあるように」という言葉に加えて「父がわたしを遣わした ように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました。イエス様がとも にいてくださり復活を通して与えて下さった平安があるから、私達が誰かにイエス様を宣べ伝えることができるのです。
 私たちがこの平安をしっかりと頂くためには、信じ、告白して歩むことが大切です。トマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とイエス様は語られました。イエス様は父の御心が、疑う者の心の内にも、信じる心が生まれ るように平安を語りかけて下さったのです。
 死に勝利してよみがえられた主は、私たちに語りかけています。「平安があなた がたにあるように」と。皆さんの毎日に主イエス様からの平安がありますように。

『わたしは渇く』
ヨハネの福音書 19章28−30節
2009年 4月 5日(日)

 受難週ですのでイエス様の十字架を覚え、「わたしは渇く」というタイトルに上 げた言葉を中心に神様からのメッセージを聞きたいと思います。
 十字架に両手両足を釘で打ちつけられている肉体の限界状態の中で、「わたしは渇く」と言われたのです。詩篇に「私の力は、土器のかけらのように、かわきき り、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」(詩篇22:15)と言う言葉があります。苦しみの中からの叫び、人となられた神として肉体の苦難の極みを経験されたと言えるでしょう。
 またこの渇きは、父なる神様から引き離されることによる苦しみでもあります。 罪を犯すことのなかったイエス様が、神様から離されているという渇きを覚え、 罪を抱える者のように苦しみを引き受けられたのです。神様の御顔が隠され、遠く引き離され、見捨てられる悲しみの中で、渇きを引き受けておられることを私 たちは知らなければなりません。あるいはそれは、魂の絶望という渇ききった状態であるとも言えます。
 「わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)
 あるいは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)
とおっしゃった方が渇きを覚えられたことを私達は深く心に刻む必要があるでし ょう。
 今、渇きを覚えておられる方がいますか。絶望、孤独、悲しみ、むなしさ、心の渇き、疲れを覚えている方。イエス様はこの受難週、私たちの代わりにむごたら しい十字架についてくださったことを覚えましょう。そして、私たちの渇きを知っておられ、その上で私たち以上に渇きを覚えられ、だからこそ私たちを生ける水で潤してくださるイエス様にすがり、信頼して歩んでまいりましょう。