ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年7月]を短くまとめてのせています。

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『愛し、敬いなさい』
エペソ 5章25−33節
2009年 7月26日(日)

 前回は、夫に対する勧告の箇所です。
 25節を見ると、夫の義務、責任として、妻を愛することが上げられています。続 く26、27節のところでパウロは、キリストの自己犠牲と愛について記しています 。人が、自分の命を犠牲にすることほど、大きな犠牲はありません。神様はその独り子をお与えになったほどに私たち一人一人を愛してくださったのです。私たちは、キリストの犠牲と愛の故に、救いを与えられていることを覚え、感謝しなければなりません。独身の方はもしかしたら「愛して結婚するのだから、愛するのは当然であり、それは難しいことではない」と思われるかもしれません。しか しそのようなキリストと教会の愛の関係になぞらえて夫が妻を愛することを言っているのです。 ですからここで「愛する」とは、自然の愛情を越えた、特別の愛を持って愛することを言っているのです。
 つまり主が私たちを許し、受け入れてくださったよう な愛を持って、妻を愛するということです。
 さて、前回と今回で、夫婦の教えの箇所をみてまいりましたが、相互の愛、相互 の尊敬、相互の服従こそ、聖書の教える夫婦のあり方であるといえるでしょう。 それと同時にキリストと教会との関係は,夫婦にたとえられるほど親密なものであるということも覚えるべき箇所です。
 私たちには、愛も思いやりも、親切も本当に足りない、少ないものではあります けれども、「キリストが教会を愛し」とありますように、主キリストは、十字架にかかるほどに、神の愛を示してくださいました。
 その感謝の思いを、またそうなりたいと願う私たちの願いを大切に互いに尊敬を 持って従い合う関係で家庭を、そして教会を築き上げて参りたいと心から願います。

『互いに従いなさい』
エペソ 5章21−24節
2009年 7月19日(日)

 結婚の起源は、最初の夫婦アダムとエバです。男性も女性も神のかたちに創造さ れ、愛の対象として創造されました。ですから、男性も女性も神様の前に平等であり、同等です。日本語の聖書では、22節から新しい段落になっています。しか しギリシヤ語の聖書では21節から新しい段落となっています。つまり、21節から家庭生活の基本的な態度について教えているのです。そしてその家庭生活の基本、夫と妻の基本的関係は、お互いに従い合うということだというのです。
 この箇所では妻に対して教えられています。夫に対しては次回取り扱います。「 妻は夫に従え」と出てきます。妻が夫に従う理由は、夫が妻の頭だから(23)です 。キリストが救い主であり、教会の頭でありそのキリストに教会が従うように、妻は夫へ従うことが求められています。
 現実に与えられているご主人たちは、完璧な人でも、聖人でもないかもしれませんが、神が与えてくださったご主人を尊敬し、感謝し、従っていくことが神様のお喜びなさることではないでしょうか。これは奥さんたちだけに言えることではなくご主人たちにも言えることです。
 聖書の原則的な教えは、夫婦が相互に従うのであって、相手を従わせることではないということを覚えることが大切なのです。また、この教えは結婚していないから関係ないということではなく、教会や社会における互いの関係において、 とても大切なことなのではないでしょうか。
 家庭は社会の最小単位です。社会が正されるのは家庭からなのかも知れません。 神様も、一人一人の救いと共に、家庭を祝福し、その家庭を用いようとしておられます。また教会は神の家族です。私達の教会においても主に従い、この互いに従い合うことを大切にして、共に成長して歩んでまいりましょう。

『人とは何者なのでしょう』(オープン・チャーチ)
詩篇 8章1−9節
2009年 7月12日(日)

 詩人ダビデは天を見上げ、月や星を見上げて神様を賛美します。天や月や星を指のわざ、整えられたと言っています。これは聖書の真理として世界は偶然の重なり合いによって出来たのではなく神様が造られた創造されたということです。 聖書は「初めに神が天と地を創造した」という言葉から始まります。その世界の調和の素晴らしさ、美しさ、神様の素晴らしさをダビデはほめたたえています。 そしてこの世界のすべてを造られた神様は、私たち人間をも造ってくださったのです。
 世界は偶然出来たとか、私たち人間は偶然の重なりである進化によって出来たとか、当然のことの様に言われていますが、「それは仮説である」というだけでなく、私たち人間の存在意義をも脅かすものです。私たちはサルだった、今ある人生もなにもかも偶然の産物で私たちはただ消えていくものだ、という結論にもなりかねません。ただの物語りとしてではなく、事実としての聖書の言葉、神様がすべてを造られ、私たちを造って下さったということを信じて受け入れ歩む時、 私たちの生き方そのものが変わってくるのではないでしょうか。
 私たちを超えた存在、創造者である神様を知ること、そしてその神様が私たちに使命が与えられていることを知ることは大切なことです。そのことを知らないならば、私たちは自分が神のようになってしまい、また使命を知らないならば、生きる目的も見出せず、漠然と生きていかなければなりません。神様は小さく、弱い私たちにもかかわらず、愛し、顧み、生きる意味を与えてくださいます。命も 存在も神様が与えてくださったことを知り、へりくだった心を持って、神様に応 えていく者として歩んでいくならば、私たちは本当に幸いなものとなるのです。

『賢い人のように』
エペソ人への手紙 5章15−21節
2009年 7月 5日(日)

 賢い人とは、どんな人でしょうか。賢い人とは、知恵に満ちた人であると言えるでしょう。そしてその真の知恵は神様から与えられるのです。
 それでは賢く歩むとは、どのような生活を意味しているのでしょうか。パウロは機会を十分に生かして用いる(16節)歩みだといいます。「悪い時代だから」と記 されています。私たちの生きている時代はどうでしょう。良い時代とはあまり思 えないような時代なのではないでしょうか。だからみことばに目を向け、与えら れた機会、また、時間を有効に主のために用いさせていただきたいものです。
 また賢く歩むとは聖霊に満たされていることである(18節)ともいいます。「酒に酔ってはいけません」とありますが、クリスチャンはお酒を飲んではいけないということではなく酔ってはならないというのです。お酒に酔い、心が満たされた感じを味わうのではなく「聖霊に満たされなさい」というのです。聖霊に満たされるとは、私たちの人格が聖霊に導かれ、支配され、神様のみこころに従いますという心の状態です。
 そして賢く歩むとは主への賛美と感謝に満たされ(19,20節)、互いに従っている(21節)ということです。賛美は、私たちの心を問題や重荷から、神様へと引き上げてくれるのです。感謝は困難な時ほど難しいでしょう。神様がすべての出来事を益 としてくださることを信じるゆえに、私たちは感謝できるのです。そしてお互いの服従です。賛美し感謝し、そして互いに従う、というのは自然で大切なことなのです。
 時代は、悪いように思える兆候があります。機会を十分に生かして用い、主のみこころをよく悟り、聖霊に満たされ、賛美し、感謝し、互いに従う、ということを再度確認して、神様がそのような歩みを与えてくださると信じて、「賢い人のように」歩んでまいりましょう。