ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年8月]を短くまとめてのせています。

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『生きること、死ぬこと』
ピリピ人への手紙 1章12−26節
2009年 8月30日(日)

 自分に、不幸な出来事、嫌な出来事、困難な出来事がおこった時、それをどの様 に捉えるかと言う事が重要なことです。「ついていない、運が悪かった」と捉えるか、「これは良かった、この事からたくさん学べる」と捉えるかによって生き方が全く変わってきます。
 パウロは自分の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った事を知って欲しいと書き記しました。実際監禁されている状況の中でも、福音宣教の業が益々広がっていくといった出来事が起こりました。また、パウロにとってキリスト が人々に告げ知らされるのであれば、たとえ妬みや争いという不純な動機からであってもいい、それを喜んでいますとさえ、言うのです。しかも自分が苦しさ、 辛さに耐えて生きていることがピリピの人々の信仰を励まし、さらに益となる方を選び取ると彼は考え、手紙を書き送りました。
 その中で21節の名言が生み出されるのです。
 どうして彼は辛い中にあっても喜び、難しい問題の中でも素晴らしい点を見つけ 今からも喜ぶことでしょうと言うことが出来、すべてが神様の最善だと思えたのでしょうか。
 それは彼がキリストに生きる者であったからです。そしてそれはパウロだから出来たというのではなく、私たちすべてに与えられた特権だということです。本気 で「生きることはキリスト」と歩む人生に解決のない問題はなく、脱出の道のない迷路はありません。それは「死ぬこと」すらも同様です。
 皆さんはどうでしょうか。皆さんにとってイエス様は、どのような存在のお方でしょうか。パウロの告白を自分のものとして歩む本当に幸いな人生を選び取って参りましょう。

『キリストの日』
ピリピ人への手紙 1章1−11節
2009年 8月23日(日)

 ピリピ人への手紙に入ってまいります。
 1節で自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と紹介しています。このしもべと言う言葉は奴隷とも訳される言葉が使われています。私達も欲望の奴隷、罪の奴隷ではなく、神様の奴隷、キリスト・イエスのしもべであり続ける幸いの中を歩んでまいりましょう。
 3節からピリピの人々への為に祈りが捧げられています。パウロは自分が伝えた信仰を持ち続け、その信仰が成長する事を願っています。その思いは誰であっても 、自分が信仰に導いた人たちがいるならば、その人たちに成長を願わない人はい ないと思います。私たちは伝えられたものであり、また伝え、教え、励ます者でもありたいものです。
 9節からの祈りは、私たち自身の願いであり、また私たちの教会がそのようであってほしいという願いです。
 愛が豊かになるために「真の知識とあらゆる識別力」が必要だと言います。何となくではなく、真の知識、すなわち聖書のみ言葉と、あらゆる識別力、すなわち聖霊の導きによって愛が豊かになるというのです。 純真で非難されるところがなく、義の実に満たされるのは「キリストの日」のためだ、と言います。私たちクリスチャンは主が再び来られる、再臨の時があると言う事を決して忘れてはならないと思います。
 私たちはいつも、「罪や欲望の奴隷ではなく、キリストのしもべであると言う事 」、「私たちは伝えられたものとして感謝し、また伝え、教え、励ます者であるということ」、そして、「キリストの日」をはっきりと自覚して聖書と霊性によ って完成を目指して歩むという意識が大切です。
 どうか私たち信仰者は本当に大切な事は何なのかと言う事を、もう一度心にとめ 、今週も歩んでまいりましょう。

『神の武具』
エペソ人への手紙 6章10−24節
2009年 8月16日(日)

 エペソ人への手紙、最終回になりました。このエペソ人への手紙の主題は「キリストの体なる教会」「キリスト者の一致」「神の家族」といった内容でした。ここまで内的な面から教会を考えてきましたが、このエペソの結びのところでパウロは、教会の外的な戦い、サタンとの戦いについて論じています。
 この12節を見るとクリスチャンの生涯は、霊的な戦いであると述べられています 。サタンは確かに存在しますし、私たちの弱さを知り尽くして分からないようにそっと忍び寄り策略(11節)を持って攻撃を仕掛けてくるのです。そのような悪魔 との霊的戦いが、私たちの人生をかけた本当の戦いなのだというのです。
 私たちは、弱く落胆しやすいですが、しかし神様が私たちを助けてくださるのです。その神様の助けを得るために、この戦いに備えて神様のすべての武具を身に着けなさい、とりなさいといいます。具体的に14-18節で7つの武具について述べています。
 ・腰には真理の帯:イエス様から頂いた真実さは私達の信仰の要です。
 ・胸には正義の胸当て:防御の最後の砦はイエス様の正義です。
 ・平和の福音の備えをはく:動きやすく足を守る履物は平和の福音です。
 ・信仰の大盾:信仰を持って主に委ねることがあらゆる攻撃の防御です。
 ・救いのかぶと:致命傷を負わないための救いの確信は大切です。
 ・御霊の与える剣である、神のことば:唯一の攻撃の武器は聖書です。
 ・すべての祈りと願い:祈りは形式ではなく神様が働くための武器です。 Tヨハネ5:5に「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者では
ありませんか。」とあります。私たちは、敵の存在を自覚し、神の武具を身に着け、勝利の道を歩んで参りましょう。

『主に仕えるように』
エペソ人への手紙 6章5−9節
2009年 8月 9日(日)

 夫婦の関係、親子の関係に続いて、奴隷と主人のあり方について勧告がなされています。今日、奴隷は存在いたしませんが、仕える人と仕えられる人の関係として学ぶことができるでしょう。
 まずは奴隷の側、従う者、仕える者への勧めです。信仰者の、主人に対する基本的な態度は、服従ということです。「キリストに従うように」とありますように原則として、クリスチャンは、地上の主人に従いながら、証ししていくことが期待されています。5節には「真心から」と記されています。クリスチャンは、人が 見ているから見ていないからではなく、神様に仕える心で、上司に仕え、与えら れた責任を正直に果すのです。また6節に「キリストのしもべとして」とあります 。イエス様の僕として、証人として、生かされているのです。さらに7節には「善意を持って」とありますが、愛の心を持ってということでもあります。そして神 様は、従う者、良い業を行なう者に、報いがあるからだと8節に記されています。 9節には主人の側への教えが書かれています。主人に対しての教えは「同じように振る舞いなさい」と記されています。「同じように」とはどういう意味でしょう か。リビングバイブルには「奴隷たちに勧めたのと同じ態度で」と訳されています。
 私たちは様々な立場がありますが、神様の恵みによって生かされ、また救われています。その神様に私たちは感謝を持って仕え、喜んで従う者でありたいと思います。またその神様が、主に仕えるように主人に仕え、また奴隷に接しなさいとおっしゃっておられることを心に留め、私たちは互いに仕えあう者、主に仕える 様に善意を持って仕えあう者とされるならば幸いです。

『主の教育と訓戒によって』
エペソ人への手紙 6章1−4節
2009年 8月 2日(日)

 6章に入ります。パウロは、夫婦に続き親子の関係について教えようとしています。
 子どもの親に対する基本的な態度は、従うということです。「主にあって」とありますが、両親が明らかに間違っている場合には、必ずしも従う必要はありません。神様に対する不服従にならない範囲で、両親に従うことは、神様に喜ばれるということです。親も子どもに尊敬されるような真実な生き方をすることが大切 であることを教えられます。
 4節以降でパウロは、子どもたちに対する両親の責任を扱っています。彼は、「怒らせるな」という消極的な面、「教育と訓戒」という積極的な面の二つの角度から、両親の責任について述べています。
 「主の教育によって」というのは、こどもの才能や賜物を認め、励まし、導いていくということです。「訓戒によって」というのは、かわいいわが子でも、罪に汚染されて生まれてきたことを自覚し、子どもは教えなくてもうそをついたり、 盗んだりするものだと理解し、「訓戒」をもって導く必要があるということです。
 子育てはすでに終っておられる方、独身の方、まだ親になっていないという方、 両親はすでにいないという方もおられるでしょう。しかし私たちは必ず誰かの子であり、神様の子供としての特権に与ることが出来る神の家族でもあるのです。 私たちは教会で、神の家族として互いに従い、互いに仕えあう関係でもあります 。そして、最終的に私たちは「神様に信頼し従う」ということを教えられ続けるのです。
 私たちは、親であったり、子であったり、それぞれ様々な環境で歩んでいますが、神様の助けによって、与えられた使命と責任を果せるように、主に信頼し従い続けて歩んでまいりましょう。