ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年10月]を短くまとめてのせています。

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『国籍は天に』
ピリピ人への手紙 3章17−21節
2009年10月25日(日)

 私達は日本国籍であったり、アメリカ国籍であったり、どこかの国に所属します 。市や県に属して税金を払ってそれなりのサービスを受け取っています。教会でも日本ではどこどこの教会に所属するというのが慣例になっていて、教会籍とい うのがあります。一家に所属していますし、学校、会社に属しているかもしれません。クリスチャンであってもこの世で様々なところに所属していますが、同時 に「天の御国」あるいは「神の国」もっと簡単に言うと「天国」の籍を持ってい るものだと聖書は教えています。
 私達は、国籍を天に持つものとして、主体的、能動的に歩めているでしょうか。 生き生きと信仰生活を喜んで前進しているでしょうか。先週はそのことを「目標 を目指して」と題してお話しましたが、今日はその目指すべきゴールについて書かれてあります。明確にゴールを分かって進んでいるでしょうか。国籍を天に持 つものは、必ず天に帰って行きます。それがいつなのかは分かりません。イエス様も「父なる神様だけが知っておられる」とおっしゃいました。しかしそこがゴールであり、そこでは栄光のからだが待っているところなのです。
 また国籍を天に持たないものは、残念なことですが、そこには入れません。目指 すべきゴールがある。救いという恵みに与った者として、そのゴールに到達しなければ、すべては無に等しいといえます。
 天に国籍を持つためのパスポートを取得するのは難しいことではありません。「 イエス様を信じます」という思いとその告白だけです。
 どうぞ信じて歩むものとしていただきましょう。そして主を信じる者たちは、いつでも神様を真剣に追い求め、生涯を勝利ある者として、ゴールに到達する者たちとして、歩んでまいりましょう。

『目標を目ざして』
ピリピ人への手紙 3章12−16節
2009年10月18日(日)

 パウロは私達に、「ひたむきに前のものに向かってすすむ」という信仰の姿勢を提示しています。
 クリスチャンは信仰を完成させていませんから、信仰生活を続けたら、やがてそのゴールがあります。そのとき、良くやったものに、神様は栄冠を用意していてそれを目指して歩むのだというのです。子供は成長することを期待されているよ うに、神様は私達に成長を願っています。その神様の願いと計画に従って、日々前進し、成長するのです。つまり信仰生活とは、目標を、完成を目指して前進するものであるのです。
 そしてそれは過去を振り返らない歩みでもあります。一生懸命前を向いて走るとき、後ろを向く余裕などありません。信仰生活も同じで「ひたすら前のものに向 かってすすむ」とパウロは言います。前進を妨害するようなら過去の振り返ってはなりません。
 前進を妨害する歩みとは、過去を見て満足し、過去の業績や熱心さを誇り、もう 十分だと成長を願わない態度です。また、過去の失敗に影響され、後悔し、悲しみ、時間を浪費することも前進を妨害します。神様が「神を愛するもののために、全てを働かせて益としてくださる」のですから済んだことは忘れて新しい気持ち前進するのです。
 13節では「この一事に励んでいます」とあります。信仰の歩みは集中と継続が必要です。現在に集中しそれを忠実に継続するのです。もちろん集中し継続し成長するためには自分の力では無理ですからキリストが私を捕らえてくださった(12)という認識が必要です。
 主に信頼し、互いに励ましあいながら、前進を阻むような過去を振り返らず、つぶやくのではなく感謝し、現在の歩みに集中しながら完成を目指して前進して参りましょう。

『イエス様を知っているすばらしさ』
ピリピ人への手紙 3章1−11節
2009年10月11日(日)

 パウロが言う「イエス様を知っていることのすばらしさ」とは具体的にどの様なことなのか。また、パウロ自身、イエス様のすばらしさを知ってどのように変わったのでしょうか。
 パウロの生い立ちからイエス様との出会いまでは、当時のユダヤ人の中でエリートでした。パウロは熱心さの点でも律法を守るという点においても、決して、人に引けを取らない優秀な者でありました。しかし、イエス様と出会った今日、これらのものが神様の前には何の価値もないものであると言う事に気付きました。 私達は他の人よりも少しでもいい生活をしたいと願います。また安定して安泰で暮らせることが大事という価値観になっているかもしれません。しかし、大切な事は自分が何のために生きているのか、がはっきりしていないならば、むなしいのではないでしょうか。
 パウロは自分の義を求めて、探求し続けました。しかし、人間の努力や修行で、 義である救いを得る事はできないと知りました。救いに対して、本当に人間の努力や行いを神様は何一つ必要とされません。神様を御業であるイエス様の十字架のあがないが私の為にあったと受け取る信仰だけでいいのです。人は行いによって、義と認められるのはなく、信仰によって義と認められるのです。
 パウロはそのことを知り、「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それ らをちりあくたと思っています。」と告白するのです。パウロの告白のように、 キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っているでしょうか。もう一度、自分達の心の内を探り、主が自分を見出し 、救いだしてくださったことに心を向けて歩んでまいりましょう。

『イエス様を求める』
ピリピ人への手紙 2章19−30節
2009年10月 4日(日)

 パウロは、ピリピ教会にテモテを遣わし、ピリピの人々を励ますという目的があ ったと思われるのもにもかかわらず、パウロは恩着せがましいことなどは、一言も口にせず、19節を読みますと、反対に「私は、あなた方の様子を知って励まし を受けたいのです」とテモテを遣わす理由を告げています。ひたすらキリストと隣人のために生きている姿を読み取るが出来ます。
 パウロはテモテを自分と同じ思いを持つものであると紹介しています。テモテは親身になって、人を思いやる心を持つ人であり、自分の利益求めず、「キリスト を求める人」であると紹介しています。パウロの思いは、自分が行きたいがそれ はかなわないのでその上での最善の策として、最も信頼するテモテを遣わすとい うのでしょう。本当はテモテを手元においておきたかったのかもしれませんが、 そうはしませんでした。まさに「自分自身のことを求めずただイエス様のことを 求めて」具体的には教会の事を考えてのことでしょう。
 パウロは恩着せがましいことをせず、ひたすらキリストと隣人のために生きてい る姿を私たちに現しました。その表れとして、愛弟子であるテモテを遣わします 。またパウロはいつも「主にあって」(19,24,29節)歩みました。イエス様を求め第一として、神様の御心を求め神様に従って歩みました。
 私たちは自分自身のことばかりを求めていないでしょうか。自分自身のことを求 めてはいけないと言っているのではありません。しかし自分自身のこと求める「 だけ」であってはいけません。主にあって自分自身を求め、さらに最も大事なイエス様を求めて、歩む私達の信仰生活をどうぞ今から実践して、今週も歩んでまいりましょう。