ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年11月]を短くまとめてのせています。

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『主の御名によって来られる王』
ルカの福音書 19章28−40節
2009年11月29日(日)

 今日の箇所はいわゆるクリスマスの箇所ではありませんが、この救い主の到来について、イエス様の「エルサレム入城」の姿から見ていきたいと思います。 イエス様は、いよいよエルサレムに入られる時に、小さなロバの子に乗って来ら れる、というのです。ロバは古代からイスラエルや西欧では家畜として飼われてきた動物ですが、見栄えもせず、しばしば、「愚か者」とか「うすのろ」とかの代名詞になってきた動物です。
 しかしそのロバを「主がお入り用なのです」とありますが、必要とされるのです 。愚鈍であること、役立たずであること、それを神様が必要とされていると聖書は、私たちに伝えるのです。他の誰もが必要としなくても、世の中が必要としなくても、神様が必要とされるのです。
 クリスマスの出来事はそれらを顕著に表しています。イエス様は泊まる宿すらなく、動物の臭いが漂う馬小屋でお生まれになりました。社会的な地位のない羊飼いと、神様が計画された選びの民イスラエル民族には知らされず、外国、おそらくペルシャかどこかの、しかも異教の魔術師のような、東方の博士と呼ばれるものたちに知らされたのです。
 クリスマスにもたらされるこの救い主の到来を見る者、今のアドベントの時に、 秘かに、誰も気づかないかもしれないが、しかし、それをしっかり見て、待ち望 むことができる者、その人は、「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」ルカ19:38と叫ぶことができるのではないでしょうか。
 このアドベントの最初の週、私たちは、私たちに到来する神様の救いを待ち望んで過ごしましょう。「主の御名によって来られる王」を心から喜び待ち望んで、 今年のクリスマスを豊かに迎えたいと思います。

『実を結び広がり続けて』
コロサイ人への手紙 1章3−8節
2009年11月22日(日)

 6節に「この福音」とあります。福音とは、ご存知のように、良い知らせ、喜ばし いニュースという意味です。古代には、戦争に勝利した時、使者を送りました。 聖書で福音とは、具体的には主キリストの誕生と十字架のメッセージです。パウロは、復活の主に出会い、生涯の大きな変革を経験しました。イエス様の福音によって人生を変えられたということが喜びであり、素晴らしいニュースなのです。
 しかしどんなにすばらしいニュースでも、聞かなければ、喜びをもたらすことはありません。コロサイのクリスチャンも、福音のメッセージを聞き、理解し、信じたのです。語られた福音を聞き、信じたときに、神の恵みを体験できたのです。
 さて、福音を聞き神の恵みをいただいたコロサイの人々は、実を結び広がり続けていると書かれています。キリストの福音は、コロサイ教会の信仰者の内外で、 実を結び続けていたのです。ガラテヤ5章には御霊の実として、愛、喜び、平安、 寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の9つのがあると書かれています。これらの素晴らしい実を結び続けるためには、枝が樹に繋がり続けていることでしょう。 切り取った枝でも実を結ぶことがあります。しかし実を結び続けるには木につながり続けることが大切です。同じように、私たちが信仰によって、神様とつなが り続けることです。そして私達が御霊の実を結ぶとき、伝道の実をも結ばせてく ださるのではないでしょうか。
 私たちも主の恵みによって、実を結び続ける生涯とさせていただこうではありませんか。そして私たちだけが実を結び続けるというのではなく、多くの方が実を結び続けるための神の器とさせていただこうではありませんか。

『恵みと平安がありますように』
コロサイ人への手紙 1章1−2節
2009年11月15日(日)

 しばらくコロサイ人ヘの手紙をご一緒に読み、学んでまいりたいと思います。このコロサイ、そしてエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、ピレモンへの手紙の4つは獄中書簡と呼ばれます。パウロは3回目の伝道旅行の後、ローマで幽閉生活を送りました。その頃に4つは獄中書簡が書かれたと考えられます。コロサイは小アジアの中央西部で、交通の要所、商業の中心地、羊毛の産地として知られていた地域でした。しかし、次第に近隣都市の影に隠れ西暦60年の大地震によって姿を消した町だといわれています。パウロ地震は訪問したことがなく、テモテやエパフロデトが伝道した町でした。
 この1、2節では、パウロの紹介と挨拶というお決まりの形式で、まず発信人、次に宛先、そして、祝福を祈る言葉です。パウロは恵みと平安を求める祈りで手紙をはじめています。
パウロの手紙には「恵み」と「平安」と言う言葉が多く、またほとんどの手紙で一度は「恵みと平安」がセットになって使われてもいます。天使ガブリエルがマリヤに「恵まれた方」と言って恵みと言う言葉を遣いました。神様から素晴らしい知らせを受けた瞬間でした。また復活してでしたちに現れたイエスさまは「平安があなたがたにあるように」と言いました。弟子たちに素晴らしい導きが示された瞬間でした。
 イエス様の誕生はマリヤの恵みで始まり、そして復活は弟子たちに示された平安で始まるのです。ですからこの「恵みと平安」は豊かな神様からのプレゼントだといえるでしょう。ですから私達はこの「恵みと平安」を求め祝福を頂きたいと思います。そして同時に、パウロが神様に祈り求めているように、私たちも互いに恵みと平安が与えられるためにも祈り求めてまいりましょう。

『必要をすべて満たす神』
ピリピ人への手紙 4章10−23節
2009年11月 8日(日)

 パウロの心の内は、いつも神様が自分を支え、必要なものは与えてくださると言った思いがあったということです。ですから、パウロは11節-13節のように語ったのです。
 私たちはどれほど、神様に対して信頼しているでしょうか。パウロがどんな状況にあっても、あらゆる境遇の中にあっても満ち足りることができるのは神様に信頼しているからですが、皆さんは果たしてどんな状況の中にあっても神様に信頼してパウロのように満ち足り続けているでしょうか。11節では「学びました」と言っていますので、パウロも初めから出来たわけではありません。信頼する神様からの「結局は恵みだった」という体験を通して学んでいったのでしょう。
 19節に「あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」あります。私たちにとって必要なものは、神様が満たして下さるお方だということです。その人に対して必要ならば、その必要を満たして下さる方であるといえます。出エジプトしたイスラエルの民たちが神様から与えて戴いたマナは二日目には虫がわき、悪臭を放ちましたが、安息日の前日は普段の二倍のマナを集めても臭くならず、うじもわく事がありませんでした。必要を満たしてくださる神様なのです。
 神様は聖書を通して自分の事を試みてはならないと命じられておられますが、例外的にマラキ書3:10では「わたしをためしてみよ」とあります。神様が必要を満たしてくださる方かどうか、祝福を注いでくださる方かどうか、試してみなさいといわれるのです。
 わたしたちは主の恵みを受けた者として、一切の必要を満たして下さる神様を信頼し、どのような状況であろうとも、主と共に希望を抱いて歩み続けてまいりましょう。

『神の平安』
ピリピ人への手紙 4章1−9節
2009年11月 1日(日)

 この箇所は、ピリピの教会の中にあった具体的なある問題の解決のために書かれている箇所です。その問題とは二人の婦人の不一致でした。
 二人の名前を挙げて、「主にあって一致してください」(2)と勧めました。新共同訳聖書では「主において同じ思いを抱きなさい」と訳されています。一致するためには、同じ思いを持つということの重要性を知る事が出来ます。主において同じ思いを抱いていないということは、互いに争って、「主のみこころが」ではなく自分の考えが先行しているということになり、それはまさに本末転倒になってしまうということなのです。
 憎しみのある教会、争いのある教会は、主がお喜びになられる教会ではありません。私たちを主が愛してくださったように互いを愛し、助け合って行く時、そこに教会のあるべき姿があるのではないでしょうか。
 4節から7節の箇所は有名で、多くの方に好まれている聖句です。パウロは獄中にあり、処刑されるかもしれない状況なのですが、そのパウロが喜びを勧めるのです。自分の状況や自分の調子、霊的に満たされているかそうでないかにかかわらず、キリストを知り、キリストに知られ、キリストが最善をなして下さることを知る者の喜びを、パウロは身をもって示しているのです。しかもそのためには信仰の土台が必要で、すべての人に対する寛大な心(5)、感謝と共にささげる祈りと願い(6)、そして神の平安(7)によって私達は喜ぶことが出来るのです。
 もちろんこの出発点は「神の平安」です。神様が無償で与えてくださっている神の平安を知りましょう。そしてその上で、神様に喜ばれ、真実や、誉れ、正しさや清さ、愛、評判の良いこと、徳、称賛といったことにも目を向け、それらを 実行していくなかで、神様の平安がさらに増し加えられていくのです。神様の平安の中を歩んでまいりましょう。