ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2009年12月]を短くまとめてのせています。

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『主の良くしてくださったこと』<年末感謝礼拝>
詩篇 103章1−5節
2009年12月27日(日)

 先日ある方から「お恵まれ様」とメールをいただいて、お疲れ様でもご苦労様でもなく、なんとすばらしい挨拶だろうと思いました。
 103篇は102篇の祈りと期待への応答であるといわれています。102篇は7つの悔い改めの詩篇の一つで、その背景には罪の裁きとしてのバビロン捕囚があり、しか し神様の約束による回復の時は近いという状況でもあります。その応答としての103篇なのです。不安は喜びと感謝に,絶望は確信に変わり、神様の赦しと救い、バビロンからの回復に対する大きな喜びと感謝にあふれている詩篇です。
 4節に「恵みとあわれみ」とありますが、思い起こせばいろいろな場面で「恵みとあわれみ」があふれていました。今年の後半は多くの方々が、この講壇上でお証しをしてくださいましたが、まさに私たちが、神様の恵みを見せられ、体験させ られたということでしょう。
 2009年の漢字は「新」だそうですけれども、私たちが考えるよりも神様は、本当はずっとずっと良いもので満たし、若さをわしのように新しく(5節)してくださった一年だったのではないでしょうか。私たちはそのことを改めて心に留め新たな年を迎えるべきなのではないでしょうか。
 神様はこの詩篇103篇にありますように、私たちを「恵み」、「あわれみ」、「新しく」してくださいましたがそれらのことをいちいち思い出して、感謝をささげるべきなのではないでしょうか。
 ですから1,2節で「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と言うのです。私達もこの言葉を私たちの言葉として主をほめたたえ主の良くしてくださったことを何一つ忘れないという感謝と確信、そして主への新たなる期待をもって今年一年を閉じて参りましょう。

『人の光』<クリスマス礼拝>
ヨハネの福音書 1章1−14節
2009年12月20日(日)

 思い起こすのですが、わずか3年前の2006年。私達の教会堂が与えられた年ですが、その時には、世界全体は経済的には上向きでしたが、去年の秋にアメリカの金融危機が始まり、全世界的な規模で百年に一度の経済危機を生み出してしまいました。私たちが生きる社会のもろさを現しています。今年の漢字は「新」だそうですが、これまでの政府では悪循環から抜け出せず、政権交代で新政権に期待するしかないというような希望からのもののような気がします。
 紀元4世紀頃、ローマ帝国の没落の状況の中でこの12月のクリスマスのお祝いがなされるようになったと言われています。ローマ帝国が末期に向う中でクリスチャンたちが、冬至祭に合わせて暗闇の中に輝いている光としてのイエス様の誕生を 祝いを始めたのです。イエス様を信じて歩むということは、お先真っ暗に思える中で、光を仰いで生きるということです。
 人間関係の悩みもあるでしょう。年を取り、体が動かなくなったり、病を抱えたりということもあるでしょう。仕事がうまくいかなかったり、経済的な問題を抱えたりもします。そして、それぞれの状況で、特に生きることの困難さを覚える時、「いったい自分の救いはどこにあるのだろうか」と思いたくなる時があります。
 しかし、私たちを救う神の光が、確かに私たちに与えられているということ、そしてその救いのしるしを私たちはクリスマスに覚えるのです。9節に「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」と書かれてあります。です からイエス様を私の光、私の希望、そしてすべての人の希望の光として、クリスマスを祝い、神の救いの光に導かれて、その光の導きを信じ、その示す道を歩ん で参りましょう。

『神は私たちとともにおられる』
マタイの福音書 1章18−23節
2009年12月13日(日)

 ルカ、マルコと読んで参りましたが、今朝はマタイです。読んでいただきました箇所は、クリスマスに読まれる聖書の箇所でも最も有名な箇所の一つです。
 クリスマスの重要な人物、ここではヨセフが中心ですが、マリアにも目を向けてみると、この二人は不安、暗闇、悲しみ、悩みの中にあったといって良いでしょう。「正しい人=信仰の人」であったヨセフは、その信仰の故に妻となるはずのマリアの懐胎を受け入れることが難しかったことでしょう。またマリアも乳飲み子を抱えて女性一人で生きていくことが難しい時代、もしヨセフの受けれがなけ れば最悪の人生を覚悟しなくてはなりませんでした。
 ヨセフとマリアを通してイエス様が誕生することの中にも語られていますが、神 様は、悲嘆に暮れる者、思い悩む者、生きることの悲しみやつらさを抱えなければならない者と共におられる、と聖書は言います。神様は、一切の未来を失うマリアと共におられ、また、すべてをあきらめなければならないヨセフと共におられたのです。そして、それは神様が暗闇を歩かなければならない人と共にいてく ださることを意味します。
 パウロは「試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Tコリント10:13)と言い、ヤコブは「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)といいます。悩みの中で、試練の中で、神はあなたと共にあり、あなたが進むべき道を開かれる、それがクリスマスに起こった出来事の意味なのです。
 クリスマスを前にした最後の週、私たちも共にいてくださる主を信頼してクリスマスを待ち望みたいと思います。

『道をまっすぐにせよ』
マルコの福音書 1章1−8節
2009年12月 6日(日)

 クリスマスではあまり語られないマルコの福音書を開き、イエス様の誕生を前に活動したバプテスマのヨハネの記事を読んでいただきました。
 バプテスマのヨハネについて、聖書では「荒野でラクダの毛で織った物を着て、 腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ、人々に悔い改めを呼びかけ、バプテスマを授けていた」と記されています。この姿は、旧約聖書に登場します預言者エリヤの姿を彷彿させます。エリヤは、多くの人々が物質的繁栄と豊かさを求めて神様を信じなくなった時代の中で、ひとり信仰の戦いを繰り広げた人でした。
 バプテスマのヨハネが活躍した荒野はその名のとおり現代でも何もないところだそうです。にぎやかで華々しい都市の中でも、成功と権威の象徴である王の宮のでもなく「荒野」で主の道を備えたのです。荒野は沈黙と孤独感と無力感を覚える場所です。そここそが私たちの救いの備えをする所にほかならないと聖書は告 げるのです。悲しみ、辛さ、失望の中にあったことも少なくなかったかもしれません。しかしそこが神様の救いの到来する場所となる、神様の救いを大いに感じる場所となる、と聖書は言うのです。
 「道をまっすぐにせよ」という題に致しました。私達自身がまっすぐな道を備えているでしょうか。「道をまっすぐに」というのは沈黙し、静まって、謙遜に、 質素に、身を謹んで、神の民にふさわしく、神に立ち返るということです。そのようにこの時を過ごしたいと思います。そこに救いが到来するのです。
 「道をまっすぐにせよ」と聖書がいうクリスマスの備えをいたしましょう。クリスマスを待ち望み、それを真実に喜ぶ人間として、この「備えの週」を過ごしましょう。