ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年1月]を短くまとめてのせています。

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2010年1月31日(日)は

講壇交換:相模原信仰バプテスト教会

リチャード・コンラッド宣教師による礼拝メッセージでした。
 

『キリストにあって歩む』
コロサイ人への手紙 2章1−7節
2010年1月24日(日)

 パウロはコロサイの教会に現われてきた異端的な教えと対抗するために、コロサイのクリスチャンを教え、導いています。
 3節でパウロは「キリストの内に知恵と知識の宝がすべて隠されている」といいます。その点で、主キリストを知り続けることはすばらしいことです。キリストを正しく理解しなければいつでも間違った教えに惑わされます。当時の異端では、 キリストは神であったが人ではなかったという教えでした。しかしイエス様は私達と同じように苦しまれ、私達人間の代表として罪の身代わりとなられたのです 。現代の異端の多くはキリストは神ではないという教えです。しかしキリストの内にあるのは神様ご自身の「知恵と知識との宝」です。ですから益々この方を正しく理解し、知り続けていくことが大切なのです。
 6節に「彼(=キリスト)にあって歩みなさい」とあります。イエス様を知り理解し 、さらに知り続けていく中で、その実践としてキリストにあって歩むことが求められています。ではキリストにあって歩むとは具体的にはどういうことでしょう か。一言で言えば「イエス様を主として礼拝し、祈りつつ、共に歩む」というこ とです。私たちに日々の歩みにはたくさんの課題はあるでしょう。そのような中であっても毎日毎日着実にキリストを信じ続け、キリストと共に歩くことを期待されているのです。また7節の後半に「教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」と記されています。ですから感謝を持って歩むこともまた キリストにあって歩むということになるでしょう。
 私達はイエスキリストをますます知り続け、感謝を持ってキリストにある人生を歩ませて頂こうではありませんか。

『栄光の望み』
コロサイ人への手紙 1章21−29節
2010年1月17日(日)

 パウロは21、22節でクリスチャンが神様と和解した事実と幸いを述べています。 私達はかつて神様から離れて生活を送り、神様に敵対していた者でした。しかしキリストの犠牲の故に、神様と和解することが出来たと言っています。それでは神様に敵対して人間が神様と和解するする方法は、何でしょうか。23節では聖書の土台に立ち、福音からはずれないようにと勧告がなされています。和解の道であるイエス様を信じ、信じ続けて歩むことです。
 24節からはパウロの使命について書かれています。24節では「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」といっています。教会は罪人の集まりである以上完全ではありません。だからといって批判するのでもなく見過ごしにするのでもなくパウロは自分の存在を持って欠けを補っていたというのです。25節には「 教会に仕える者」といっています。パウロは教会を迫害する人物でした。その彼が、神様の愛に捉えられたのです。神のことばを伝えるために、教会の奉仕者とされたのです。そして28節には「キリストを宣べ伝え」る者だと言っています。 イエス様を信じて救われた者たちは困難を乗り越えて、キリストにある成人となるまでの使命が与えられていたのです。
 私達は、イエス様を信じ、聖書の土台の上に、福音の中を歩み続けることが大事 です。さらには信じるだけで、奮闘も努力もしなかったら、クリスチャンとしての成長も勝利も成功も期待できません。クリスチャンすべてが「教会の欠けを補 い」「教会に仕え」「キリストを伝える」という使命が与えられていることを覚 え主に仕え、教会に仕える者として歩ませていただきましょう。

『御子のご支配の中に』
コロサイ人への手紙 1章13−20節
2010年1月10日(日)

 コロサイの教会では、キリストに関する異端的な教えがはびこりつつあり、パウロはその異端的な教えに対して間違ったキリスト論に気づかせ、キリストがどの ようなお方であるかを書いています。
 14節に「贖い、すなわち罪の赦し」と出てきます。「贖い」は、買い戻すこと、 奴隷状態のものを解放することです。奴隷状態とは支配されている状態を指しますが、罪に支配されている私達を買い戻してくださいました。また「贖い」聖書 では「罪の赦し」と深く関係します。私達は、罪意識という重荷、良心の呵責を 覚えながら生きています。イエス様は、私たちの罪を赦し、良心の呵責からも解放してくださいます。
 16節に「万物は御子にあって造られた」とあります。また17節には「万物は御子にあって成り立つ」とありますが、イエス様は、万物の創造者であると同時に、 保持しておられる方です。また私たちを創造され、生活をも支配しておられ、主 を愛する者のためにすべてを働かせて、最善にしてくださるお方(ローマ8:28)なのです。
 18節に「教会のかしら」であると出てきます。私たち一人一人が、頭であるキリ ストとの関係を保たれています。神様の前に尊い宝であり、大切な存在です。そ して、私たちが頭である主イエス様に繋がり続けていく時に、神様からの大切な 使命をも果していくことができるのです。
 「御子のご支配の中に」という題をつけましたが、私たちはイエス様に、暗闇の圧制から、救い出され、「御子のご支配の中に」すなわち光の中に移されたのです。イエス様のご支配の中に入れられたことを感謝し、まだやみの中におられる多くの方々に、光と希望を与えることができるこのイエス様を届けてまいりまし ょう。

『絶えず祈り求めて』
コロサイ人への手紙 1章9−12節
2010年1月3日(日)

 パウロは、コロサイの教会の様子を聞いたときから、コロサイのクリスチャンのために祈り続けたのです。「絶えず」とありますので、パウロのコロサイ人に対して深い重荷を持っていたことがわかります。9節後半から書かれているパウロの祈りの内容に目を向けましょう。
 9節に「神のみこころに関する真の知識に満たされますように」とあります。健全な知識を持つことは、信仰生活において大切です。イエス様を真の救い主を知る ために必要なのは、人間的な知識ではなく真の知識、霊的な知恵と理解力ですが、それは神様の助けが必要です。みこころを知り続ける歩みのために互いに絶え ず祈って参りましょう。
 10節に「主にかなった歩みをして」とあります。あるいはこれは「主に喜ばれ」 る歩みです。クリスチャンに与えられた使命は、神様を喜ばせ、主の栄光のために生きるということです。時間も、財産も、健康も、能力も神様から委ねられた ものですから、これを、神様のために用いることは大切です。
 12節「感謝をささげることができますように」とあります。年末感謝礼拝でもお話しましたが、主を待ち望むものに、新しい力が約束されています(イザヤ40:31)。「聖徒の相続分にあずかる資格を与えてくださった父なる神」とあります。神 様が与えてくださる相続は、腐ることも無くなることもない永遠のいのち、天国の望みです。希望を与えてくださるお方に深い感謝をささげられるようにとパウロは、祈ったのです。
 私たちもパウロが祈りましたように、自分のために、そして互いのためにこれら の祈りの課題を深く、そして「絶えず祈り求め」続けてまいりましょう。