ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年2月]を短くまとめてのせています。

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『感謝の人』
コロサイ人への手紙 3章12−17節
2010年2月28日(日)

 コロサイ書の後半、3章以降では、信仰生活の実践に強調が置かれています。前回 は、消極的な面、つまりマイナス面に気をつけなさいと勧められていました。この箇所では積極的な面、つまり「こういう生き方をしましょう」と勧められている箇所です。
 クリスチャンは神様からどんなことを期待されているのでしょうか。 12節には「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」とあります。教会 を現すエクレシア(ギリシャ語)という言葉には「神に召されたものの集まり」という意味があります。私達は神様のすばらしい愛とその御心をのべつたえるため に選ばれたのです。そのように選ばれたものとして「深い同情心、慈愛、謙遜、 柔和、寛容」を持つということが期待されているのです。
 13節には「忍び合い、赦し合いなさい」とあります。罪深い私達を、忍耐深く赦し受け入れてくださった神様に目を向け、また赦しを実践されたイエス様と十字 架を深く覚え、家族や友人、あるいは敵をも心から赦すということは私達の信仰生活の中でとても大切なことなのです。
 15,16,17節に「感謝」という言葉が繰り返されています。私たちは、礼拝の中で感謝を捧げるだけでなく、日常の生活の中で、主に感謝と賛美を捧げることが期待されています。不平、不満は私達の心を砂漠のようにし、人と人との関係をすさんだものにします。感謝は、生活に潤いを与え、人間関係を豊かにし、希望や期待、やる気を促します。
 タイトルを「感謝の人」としましたが、私達はまずは、感謝に満ちた生活を送る中で、イエス様の愛を覚えまた互いに愛を実践してまいりたいと思います。そし て「感謝の人」と呼ばれる者となりたいと思います。

『結び合わされて』
コロサイ人への手紙 3章1−11節
2010年2月21日(日)

コロサイ人への手紙の3章に入ります。3章以降では、イエス様を信じる生活、実践に強調がおかれています。イエス様を理解するだけでなく、イエス様によって変えられつづけていくということです。
 まず、パウロは、キリストによって人生を変えられた人が「上にあるものをもとめる」(1節)ように勧めます。「上にあるもの」とは自分の欲や願いではなく、神 様の備えておられる導きと祝福です。それを求めることが大切なのです。「地上 のものを思わず」(2節)とありますが、地上のことを全く考えないわけではありません。しかし、地上のことだけに心が捕らわれていることは問題です。
 パウロは、上にあるものを求めることが信仰の歩みだと述べた上で、私達クリスチャンの具体的な歩みについて述べています。まずは悪い情欲を殺してしまいなさい(5節)と言います。殺すということは、いのちがなくなる、動かなくなるとい うことです。イエス様を信じるものは、悪い欲を完全になくして働かなくしなさ いという勧めなのです。もう一つは悪いことばを捨ててしまいなさい(8節)といいます。傷つける言葉、ののしり、悪口、陰口、偽りは避けなければならないものです。
 今日のタイトル「新しい人」とは、「キリストにある新しい人生」という意味です。しかもすでに「新しい人」としてくださったのだといいます。だからそれにふさわしく歩みましょうと励ましているのです。
 イエス様を信じることによって新しい人とされた私たちなのです。「新しい人」 つまり「キリストにある新しい人生」を与えられたものとして、「新しい人」にふさわしく、失敗はあってもご一緒に励ましあい、支えあい、上を見上げて歩ん でまいりましょう。

『結び合わされて』
コロサイ人への手紙 2章16−23節
2010年2月14日(日)

 異端問題があったコロサイの教会の人々に、異端の人々の中で行なわれていた間違った信仰の実践について述べています。
 まず儀式主義の誤りがありました。異端的な人々は、ユダヤ教的な儀式を重んじて、信仰そのものを軽んじ、イエス様を信じて歩むことを疎かにしていたのです 。旧約聖書にある律法や儀式は、やがて来るべき本体の影でしかなく、本当の信仰は、単なる形式や儀式を形だけで守るのではなく、イエス様ご自身を信頼し、愛し、従っていくことなのです。
 次に天使を礼拝するという誤りを指摘します。皆さんはそのような天使礼拝がお かしいことはお分かりだと思いますが当時はそうではありませんでした。こういった問題を現代に当てはめてみると、たとえばカルトは、「神様の使い」と称す る人を崇めさせたりします。キリスト教の中でもたとえば牧師が神の役割をしてしまい崇められたりするとカルト化していくことになります。そんなに素晴らしい人であっても礼拝の対象ではありません。礼拝の対象は神様であり、神の御子イエス様なのです。
 最後に禁欲主義の誤りです。肉体は悪であり、欲望はすべて罪深いものであるというグノーシス主義の影響を受けていたと考えられますので肉体の欲望を禁じる 禁欲主義的な生き方が強制されたようです。禁欲的な生き方は、人間の編み出した教えであり、神様が示しておられるのは信仰による平安、喜び、希望であり、 神様は自由と恵みの中で心を満たしてくださいます。
 私達は儀式に頼るのでもなく、別の何かを礼拝するのでもなく、自分で自分を縛 るのでもなく、いつでもイエス様に「結び合わされて」神様の御心の内を歩ませ て頂こうではありませんか。

『キリストにあって満ちる』
コロサイ人への手紙 2章8−15節
2010年2月7日(日)

 パウロは、この父なる神様の満ち満ちたお方キリスト(9節)にあって、私たちも満ち満ちていることを宣言しています(10節)。私たちは、キリストにあって満ち満ちることができるのです。満ち満ちるとは、単にお金や物資的な豊かさとは限りません。パウロはピリピ書で「どんな境遇にあっても満ち足りる」(ピリピ4:11-13)ことを力強く証ししています。これは私達にも言えることで、イエス様にあって満ち満ちることこそ誤りから守れられる道なのです。
 そしてさらに、救いのすばらしさ、完全さをさらに深く理解し、また経験することが大切だと11節以降のところで教えています。
 11節にはキリストの割礼を受けたと記されています。キリストを信じ受け入れることによって、罪を赦され、心に割礼を受けた者だと言うのです。そして、神様 の子とされ、神の国の民とされているのです。12節にはバプテスマについて書かれています。バプテスマ、洗礼は、一度死ぬことと変えられたものとして生まれ ることを表します。やり直したい、生まれ変わりたい、私に人生を変えたい、と思う私達人間にその恵みを提供してくださるのです。14節に「債務証書を無効にされた」とあります。大きな返済義務から解放された喜びは、想像するになんともいえないもではないでしょうか。
 キリストにあって満ち満ちたものとされ、救いの事実を深く知りその完全さを経験することが、異端や誤りから守られることで、そしてそれ以上に私たち自身の信仰生活を豊かにする秘訣でもあります。
 私たちを満たしてくださるイエス様に支えられ、強められて、信仰を成長させていただき、人生を豊かなものとさせていただきましょう。