ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年3月]を短くまとめてのせています。

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『どうしてわたしを』
マタイの福音書 27章45節−56節
2010年3月28日(日)

 今週は今年の受難週にあたります。
 イエス様の最後の言葉は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」つまり、「わが神、 わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした。人々 に見捨てられ、父なる神からも見捨てられました。
 神様なら、どうして絶望して死んでいかねばならなかったのでしょうか。絶望的な状況から奇跡をおこして勝利する、それこそがキリスト、と私たちもそんな風にしばしば思います。奇跡を行ってこれらたイエス様は、この時あえてそれをしなかったのです。
 人は神様に助けを求めます。苦しいとき、大変な時助けてくれるのが神、そうでなければ意味がないと考えます。しかし十字架で死なれたイエス様自身には、そのような私たちの期待に答えるような、私達が求めているような力強い神の姿はまるでありません。私達の神様は、上から力を発揮して人間を思いのままにあやつる神ではなく、私達のところに下って私達と同じようになり、私達の弱さを知り、全て受け止めて、全てを包み込むような神の姿と言えるでしょう。イエス様 は十字架の死に至るまで、私たちと同じ所にいてくれました。この十字架の救い主はインマヌエル、つまり「私達とともにおられる」という神様なのです。
 ともにおられる、というのは「どうして私を見捨てたのか」と神様に向かって叫ぶ、私たちの位置と同じ場所ということが出来るかもしれません。同じように神 に叫んでくれるということなのです。 十字架のイエス様はともにいてくれる方、ともに苦しんでくださる方、ともに絶叫してくださる方です。私達はこの方に励まされ慰められて、いや、この方を喜んで、この方に感謝して歩んでまいりましょう。

『塩味の効いた言葉』
コロサイ人への手紙 4章2節−4章6節
2010年3月21日(日)

 たゆみなく祈るよう(2節)に勧めます。神様は一人一人に大切な使命を与えておられますが、その使命を果し続けるために、祈りは不可欠です。手を組んで目を閉じて頭をたれて祈るときも、運転中や仕事中、あるいは人に助けられているとき も、霊的な目を覚まし、神様をいつも覚えて祈る生涯であることが大切です。たゆみなく、そして文句のときもあるかもしれませんが、その中でも「感謝を持って」祈るのです。
 またパウロは、「祈りなさい」と勧めているだけでなく、自分のために祈ってほしい(3,4節)と祈りの依頼をしています。パウロ自身もコロサイのクリスチャンのために祈っていました(1:3)が、そのパウロが、祈りの要請をしていますが、それ は祈りの力を確信していたということでしょう。私達も確信を持って互いに祈り合う群れでありたいと思います。
 5節では賢明にふるまい、機会を生かすように続けます。「外部の人に対して」とありますが、私たちは、信仰を持っておられない人々に囲まれながら、生活していますが、その周りの人に希望と励ましを与えることができるのです。そのためには「賢明にふるまい」とあるように、神様の豊かな知恵を祈り求めましょう(ヤコブ1:5)。
 6節ではことばについての勧めです。人を生かすことも、殺すこともできるのがことばですがいつもことばの力、大切さを自覚して、歩んでまいりましょう。「ことばが親切」とありますが、愛や思いやりがなければ難しいことです。「塩味の効いた言葉」というタイトルをつけましたが私たちの心に注がれた神様の大きな愛を覚え、周りの方々を愛し、親切で、塩味のきいた言葉が私達から出るように神様に願い期待して歩んでまいりましょう。

『人に対してではなく』
コロサイ人への手紙 3章22−4章1節
2010年3月14日(日)

 この箇所には、奴隷に対する勧告と主人に対する勧告の二つのことが記されています。当時の社会制度の中で書かれたパウロの手紙をそのまま当てはめることはできませんが、信仰の原則を学ぶことができます。
 まずは奴隷に対する勧告です。ここでは奴隷制度の是非ではなく、自由人は自由人として、奴隷は奴隷として、神様のために生きていくように励ましています。 私達の環境において奴隷制度はありませんが、いわゆる「主従関係」はあるのではないでしょうか。経営者と労働者、上司と部下、師匠と弟子、先輩と後輩、先生と生徒もある面では主従関係といえます。その主従関係において「従いなさい」(22)と教えています。
 もちろん上に立つ者がすべて正しいとは限りません。たとえば横暴な独裁者もい ますのですべて言いなりになりなさいということではないと思います。しかし「 地上における主人に従う」というのが聖書の基本的な教えです。しかも「人のご きげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい」と言うのです。これが神様からの教えであり命令で、神様が喜ばれることなのです。
 次に主人に対する勧告です。主人に対する勧告は、「正義と公平を示しなさい」(4:1)ということです。地位、権威を与えられた人は、特権とともに危険性もあります 。権力を与えられた人が、個人的な感情や願望を中心に行動してしまうことが少なくありません。
 私たちは、従うべき相手がいます。そして主に対するように仕え、接するようにとの聖書の教えでした。もちろん、何よりも従うべきお方は、それら地上の主人たちのはるかに上に位置する神様ご自身です。真心から従い続ける者であるならば幸いです。

『家族を顧みる』
コロサイ人への手紙 3章18−21節
2010年3月7日(日)

 家庭というのは最小の共同体です。家族における互いの関係が難しくなっているような時代で、神様の恵みと助けによって家庭の建て上げることを神様から期待 されています。家族のあり方を顧みてみましょう。
 一番目は妻のあり方です(18)。聖書では男女の隔たりなく神様に愛され、平等です。しかしに異なる役割が与えられているのです。他の箇所で「女のかしらは男であり(Tコリント11:3)」とか「主に従うように、自分の夫に従いなさい(エペソ5:22)」とありますが、これは夫を尊敬し「主にある者にふさわしく」夫に従うことが 期待されているのです。
 二番目は、夫のあり方です(19)。イエス様が私たちを愛されたように妻を愛するように勧められています。愛とは、相手の幸せの為に犠牲を払うことでもあります。ある先生が「むしろ聖書は男性に厳しい」と言っていましたが、「従う」よりも「愛する」方がより重く、強く、厳しい命令であるのかもしれません。
 三番目は、こどものあり方です(20)。子供が両親に従うことは、神様の命令です が、尊敬なしに服従のみを強要してもただの自分勝手ですから、私達は子供に尊 敬されるような親としての真実な歩みが期待されているのでしょう。
 第四は、父のあり方です。両親が知恵と自制心を持って、子どもに接するように教えます。子どもが経済的に、精神的に、そして信仰的に自立していけるように、親は切に祈り求めていく必要があるのでしょう。
 これらの教えは他人に当てはめるものではなく自分に当てはめるものとして学び、実践してまいりたいものです。家族を愛し、家族のために祈り続け続ける者とさせていただきましょう。