ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年4月]を短くまとめてのせています。

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『強制されてではなく』
ピレモンへの手紙 8−16節
2010年4月25日(日)

 パウロがピレモンに望んだこと、それは盗みを働いて逃げ出した奴隷オネシモを 赦してあげてほしい、兄弟として受け入れてともに働いて欲しいということでし た。しかし人を赦すというのは非常に難しいことです。私たちが赦すことができ る者になっていくために必要なことは、まず私たち一人ひとりが神様の赦しを覚 えるということです。そして神様の助けをいただかなければなりません。
 パウロがここでピレモンに願ったことはピレモン自身もよく分かっていたことでしょう。そのピレモンに対してそれを実践するようにと勧めるのです。
 オネシモは成長したクリスチャンとなっていました。自分がどうなるかさえ神様 に委ねて主人ピレモンのところに戻りました。それは自分の罪の清算をする覚悟でした。主人のところに帰って主人に心からの謝罪をし、どんな罰でも受けるという覚悟でもあるでしょう。またオネシモは12節を見るとパウロと同じ心、同じ 気持ちを共有している者となりました。だから赦して欲しい、しかも、14節「強制されてではなく」受け入れてほしい、とパウロは手紙に書いたのです。
 私達もクリスチャンとして、しかも成長しているクリスチャンとして、この愛の行動である赦しを、互いに、そして神様がお立てになった教会で一致して、それ も強制されてではなく、自発的に、喜んでそのことを実践して参りましょう。神 様の恵みに感謝して神様に信頼して助けていただきながら、私達が永久に兄弟姉 妹として永遠の命を生きていくため、強制されてではなく、愛にあふれたクリスチャン人生を送ってまいりましょう。

『生きて働く信仰』
ピレモンへの手紙 1−7節
2010年4月18日(日)

 3回に渡りピレモンへの手紙を読んでまいります。パウロは信仰の実践を勧めていますが、その一つがこのピレモン書です。
 6節には「信仰の交わりが生きて働くものとなりますように」というパウロがピレモンのために祈りを捧げている言葉があります。ピレモンがこれからも続けて信仰を実践して行くように祈ったのです。この「生きて働く」ということばは、活き活きと、あるいは活発になるようにという意味があるのですが、行為において実証されることです。ここにある「交わり」と言う言葉は、寛大な行為とか参与 、参加するという意味もあります。そして、ここでパウロがこのことばを使って言いたかったことは、神との親しい交わりを通して、その信仰を愛の行動に移していくように、愛の行動で現わすようにと、そのことを祈ったのです。ピレモンにおいてそのことはもうなされていたのですが、それがもっともっとなされて行 くようにとパウロは祈ったのです。
 「生きて働く信仰」という題をつけました。それは4-7節で表されているパウロの賞賛のことばの中にあるピレモンの姿に見られるものです。ピレモンはパウロにも、多くの兄弟たちにも大きな祝福をもたらす者でした。そして、そのことは神様が私達クリスチャン一人ひとりに望んでおられることです。私たちは人々に祝福を与えるために救われたのです。
 信仰を生きて働かせ、人々にとって祝福となりなさいということは、主に忠実に生き、みことばを実践することによって、神様が働かれるのです。神様は「生きて働く信仰」を持つ者に変えられて行くこと、益々そのような者となることを望んでおられます。神様に信頼して「生きて働く信仰」を持つ者としてご一緒に歩んでまいりましょう。

『忠実な奉仕者』
コロサイ人への手紙 4章7−18節
2010年4月11日(日)

 具体的な名前が挙がっている忠実な奉仕者たちがいました。 まずはテキコです。主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者である、とパウロは心 から賞賛しています。囚人であるパウロの友人となり、労苦を惜しみませんでし た。また献金をエルサレム教会に届けたことがありましたし、この手紙を託され たもの彼でしたが、これは人々にも信頼されていた人物であったとも言えるでし ょう。
 次はオネシモです。オネシモは主人の物を盗み、ローマに逃亡したのですが、パウロを通して、キリストに出会い、新しい人に変えられたのです。以前は、主人の物を盗んでしまうような人間が、主の福音によって、忠実なものに変えられるのです。
 アリスタルコは、ローマに移送されてパウロと同じ囚人として、信仰を堅く保ちコロサイを覚えて日々を送っていたのです。マルコは、第二次宣教旅行の際、パウロに拒否されるような失敗をしたのですが、今は彼も回復し、教会に受け入れ られていたのです。ユストと呼ばれるイエスですが、福音を受け入れたユダヤ人は多くなかった中でユダヤ人クリスチャンでした。パウロは、彼らから激励を受けた、大きな慰めをうけたのです。エパフラスはコロサイ教会の牧師で、コロサイの信仰者が完全な人となり、神の御心を確信して生活できるように、祈り、またラオデキア、ヒエラポリスにいる人々にも伝道の重荷を担っていました。
 彼らは、聖書に度々でてくるわけではありませんが、忠実な主の僕、忠実な奉仕 者でありました。大きな働きか小さな働きかではなく、たとえ結んだ実を見るこ とができないような働きであるかもしれませんが、私たちも、忠実な奉仕者とし てご一緒に歩んでまいりましょう。

『そこでわたしに』(イースター)
マタイの福音書 28章1−10節
2010年4月4日(日)

 イースターは喜び楽しむ日というよりむしろ思いもよらないことが起こった日、 驚き震え上がる日なのかもしれません。
 神学校で証拠論という授業があります。たとえばこの復活の証拠はあるのかとい う学びです。その一つは、こそこそ逃げ回っていた弟子たちが、やがてイエス様のことを堂々と伝えるようになったということです。弟子達がイエス様の遺体を盗んで「復活した」といっている程度のことのだったら、命を懸けてこのことを 宣べ伝えるでしょうか。何が弟子たちをそうさせたのでしょう。それは復活のイエス様との出会い以外には考えられません。復活のイエス様との出会いが絶望していた弟子たちに確信と力と勇気を与えたのです。
 今朝のタイトルは「そこでわたしに」としました。私達も信じれば絶望が確信と希望へと変わります。それがたとえ死んでいくときであっても、弟子達と同様、 イエス様とお会いできる希望をもつことが出来るのです。私たちは今、顔と顔を合わせるようにイエス様と会うことはできません。しかし世の終わりまで私たちと共にいる、「そこでわたしに」会える、それがイエス様の約束です。
 イエス様は40日後に天に上げられました。弟子達にとっても見えない存在となったのです。しかしその確信と力と勇気は決して薄れませんでした。それは私達も 同じです。イエス様を見たか見ないかではなく、復活されたイエス様を信じることで力をいただけるのです。
 イエス様を信じて先に召された方たちは、イエス様と共にいます。私たちもやが てその永遠の神のみ国でイエス様と共に永遠の命を生きるのです。そのイエス様 の約束の中、希望を持って歩んでまいりましょう。