ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年5月]を短くまとめてのせています。

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『時が満ち』
マルコの福音書 1章14−15節
2010年5月23日(日)

 福音書の多くの部分は、イエス様の3年間の公生涯、すなわち宣教活動が記されています。この箇所はそのイエス様の宣教活動の第一声です。
 それはガリラヤで発せられました。ガリラヤは、その国主ヘロデの暗い支配がお おっている土地、バプテスマのヨハネがヘロデによって捕らえられ、惨殺された 土地でした。人々はバプテスマのヨハネに期待していました。しかしその希望を 託していたヨハネが捕らえられ意気消沈していたガリラヤでもあったのです。さらに、イエス様が活躍した時代のガリラヤの町は急進的な愛国主義者が多かった と考えられます。社会変革を望むような急進的な人々でもありました。熱心党のシモンやイスカリオテのユダなどもそのような人たちの一人であったようです。 そんなガリラヤ地方で、「悔い改めて福音を信じなさい。」と宣教活動を始めた のです。「悔い改める」とは、「方向転換」を意味しています。神様に立ち返り、「福音」すなわち、救い主の罪の赦しのメッセージを受け取りなさいということだったのです。つまり社会を変えるのではなく自分が変わるということです。
 イエス様は「時が満ち」とおっしゃいました。神様を信じたい、従って生きたい、今の生き方を変えたい、あるいはクリスチャンの方でも、イエス様を信じたけ ど生き方が変わっていない、どうしようもない自分がいる、生き方を変える決心がしたい、決断できているのだろうか、そんな風に思っておられる方がいらっし ゃるかもしれません。そんな私達にも、時は満ちている、周りの準備は整ったと言われています。ですから私達は一度の決心だけではなく、それを保ち続け豊かに成長させていただけることを期待して歩んでまいりましょう。

『救いを与える者』
マルコの福音書 1章9−13節
2010年5月16日(日)

 イエス様はバプテスマを受けてから、悪魔の試練にあわれました。
 バプテスマを受けるという事は、罪を悔い改めるという大事な要素もありますが、それ以上に、生涯、激しい叫びと涙をもって父なる神に祈り頼る生活をしてい きますという誓いの行為なのです。罪のないイエス様の公の生涯(宣教活動)のスタートも、私たちと同じように洗礼を受けることから始まりました。イエス様 の最初の働きは、派手な奇跡ではなく素晴らしい説教でもなくバプテスマを受けられ、罪の悔い改めの為ではなく、私たちと同じような者として、私たちと同じ人として来てくださった故に、洗礼を受けられたのです。
 次に悪魔の試みにあわれました。他の福音書を見ると、イエス様がどんな誘惑を 受けられたかが書かれています。イエス様は、この荒野の誘惑において、動じることなく、聖書の言葉をもってサタンを退けました。イエス様は、この荒野の試みを通して、ご自分のこれからの働きを指し示し、公の生涯をスタートされまし た。この荒野の試みは、イエス様がまことの神の子であるということを証明され た出来事でもあるのです。
 「救いを与える者」と題をつけましたが、イエス様はこの地上に来られ、神であ られる方が人と同じようになられ、私たちと共に歩んでくださった方です。イエス様が来られたとき、天が裂けた(10)とありますが、この時から神様は、私たちの救いを具体化するために、直接的に歴史の中に介入してくださいました。私たちと同じように悪魔の試みにあわれ、そして打ち勝ってくださったのです。この方は、私の人生にも深く介入し、歩むべき道を備え、導き、潤し、勝利させてく ださる「救いを与える者」、まことの救い主なのです。この希望の中を歩んでい きましょう。

『道をまっすぐに』
マルコの福音書 1章1−8節
2010年5月9日(日)

 マルコの福音書をご一緒に読みます。冒頭に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」(1節)とあります。これから語ろうとする内容が凝縮された言葉です。 イエス・キリストが「神の子」であること、そして、その生涯を描き伝えることは「福音」であるということです。
 福音書は神の子であるイエス様の生涯、言動、十字架、そして復活が書き記され たものです。そして「福音」とは「良い知らせ」「Good News」を意味します。この聖書の時代、戦争に勝つと、それを知らせるために走る伝令の役割がありまし た。その戦勝報告が「福音」です。ですから、福音というのは、勝利報告であり、平和の訪れ、解放の宣言でもありました。イエス様の働きは、人々に福音を運ぶものであり、そこには、解放があり、癒し、平安、自由が与えられるのだと宣言されたのです。
 さて、2節以降にはイエス様が来られる前に、まず、その道ぞなえをする人物が来ることを示しています。バプテスマのヨハネです。彼は荒野で悔い改めを説きました。「悔い改める」とは、「方向を変える」という意味です。神様に背を向けて歩むのではなく神様に向き直ることです。そして、それを表す洗礼を受けなさ いと言ったのです。これがヨハネの毎日語った言葉でした。ですからヨハネの働 きは、「人はみんな神様の方向に向きを変える必要がある。そのために洗礼をうけて、あなたの人生の方向を変えなさい」と説くことでした。
 今日のタイトルは「道をまっすぐに」といたしました。聖書は私達に悔い改め、 方向を変え、道をまっすぐにし、主に向き合いなさいといっています。この声に真面目に真剣に誠実に耳を傾け、私達は今日も主の道を整え、私達の思いを、心 を神様にまっすぐに致しましょう。

『愛と赦し』
ピレモンへの手紙 17−25節
2010年5月2日(日)

 3回に分けて読んできましたピレモンへの手紙の最終回です。パウロがピレモンに送った手紙は、あなたのところから逃げていった奴隷オネシモを赦してあげてほしいという内容でした。
 18-19節でパウロはピレモンに対して保証、あるいは約束を与えるのです。オネシモがあなたに対してしたその盗みに対する損害は私が支払いますというものでし た。パウロの愛が表れています。自分自身が犠牲を払ってこのオネシモを愛する、喜んで犠牲を払うという愛をオネシモとピレモンに示したのです。このような犠牲的な愛の源は、神様の愛です。神様は一方的に私たちを愛し、しかも、イエス様のいのちという尊い犠牲が伴った愛を示してくださったのです。なぜパウロはオネシモに対してここまで愛したのでしょう。それはパウロだからではなく、 イエス様を信じたことによって神様の愛をもって人を愛せるように変化させてく ださったのです。努力で神が愛するように人を愛しなさいと言われたなら、こん な重い負いきれないものはありません。私たち人間には不可能なことでも神様の助けによって、できるのです。大切なことは、主よ、このように私は生きて行きたい、助けてくださいと主の恵みをいただきながら生きることです。互いに愛し合うこと、赦し合うこと、それは必要なことです。それを私たちが主の恵みによって実践するときに、それを可能にしてくださっている主の栄光が現わされるのです。
 どうぞ、愛する者、赦す者になってください。どうか私たちがますます愛し合い 、赦し合う者となることができますように。愛し合い、赦し合う教会として歩ん でまいりましょう。そして、キリストのすばらしい栄光が現わされることを期待 しながらともに歩んでまいりましょう。