ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年6月]を短くまとめてのせています。

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『あなたの罪は赦された』
マルコの福音書 2章1−12節
2010年6月27日(日)<オープン・チャーチ>

 カペナウムでのことでした。屋根から担架のようなものが吊り降ろされ、そこには中風の人が寝かされていました。イエス様はこの人を癒されたのです。このエピソードは、何を教えているのでしょう。
 まずはこの中風の人と彼を運んだ仲間達の信仰です。彼らはとにかくイエス様を信じてみようと、一歩踏み出して、動き出しました。一歩どころか、人のうちの屋根まで壊すほどに強引に進み出たのです。実際の屋根を壊すというのはほめられたことではありません。しかし私たちの周りにもある心の屋根、様々な壁はどうでしょうか。たとえば「宗教は全部ダメだ」とか「イエスを信じるというと変 に思われる」とか「主人に反対される、妻に反対される、子どもに、親に反対さ れる」という壁です。私たちも屋根を壊してイエス様に会いに行くときに何かが起こる、それも素晴らしい何かが起こるのではないでしょうか。
 もう一つ教えていることは、イエス様が罪を赦す権威を持っておられるというこ とです。この膨大な聖書の中心的内容は、イエス様が罪を赦す権威を持っておられ、この方によって救われる、罰を受けずに永遠の命を受け、天国に入ることが できるというメッセージです。イエス様の来られた目的は、罪の赦しを与えることです。そのために十字架にかかってくださったのです。
 神様は私たち一人一人がしっかりと立ち上がり、イエス様を信じて、罪の問題を解決し、解放された人生を歩み出すことを望んでおられます。教会は互いに励ましあい、祈りあいながら歩んでいく場所です。ぜひみなさんもご一緒に神様に礼拝を捧げながら、イエス様を信じ続けて、あらゆる心の束縛から解放され、励ましあいながら歩んで参りましょう。

『わたしの心』
マルコの福音書 1章40−45節
2010年6月20日(日)

 前回は、汚れた霊に憑かれるということと、病について罪となんらかの関係があ るということをお話しました。この箇所ではツァラアトに冒されるという問題、 「汚れ」の問題についてです。
 このツァラアトという病に関しては、旧約聖書のレビ記13章と14章に細かい規定 が書かれています。人体の皮膚だけでなく、衣類、また、家の壁にまで生じるものとして書かれています。またツァラアトの者「汚れている、汚れている」と叫ばなければならず、「汚れている」と言う理由で、宿営の外にすまなければなり ませんでした(レビ13:45-46)。
 旧約聖書では「汚れている状態」と「きよい状態」の二つの状態があるということですが私達にはなかなか理解し難い概念で、注意しなければならないのは、勝手に日本語のイメージで考えるということです。
 旧約聖書の「汚れ」と「きよさ」に関する箇所は、「神様や民との交わりに入ることが出来ない=汚れた状態」と「神様や民との交わりが許される=きよい状態 」があるということを教えようとしています。
 イエス様の時代、この病に冒されたということは、社会生活からの孤立を意味していました。しかし、一人のツァラアトに冒された人がイエス様のもとに近寄って来たのです。そしてイエス様に40節「お心一つで、私はきよくしていただけます」と懇願してきたのです。すると、イエス様は、誰も触ろうとしないこの人に手を伸ばし、そっと触れました。そして41節「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。
 「わたしの心」つまり、イエス様の心、イエス様の願いは、ひとりひとりがきよくなるということ、神様との交わりに入ることです。神様との交わりの中、神様 に信頼し、神様を呼び求めながら歩んでまいりましょう。

『福音を知らせよう』
マルコの福音書 1章29−39節
2010年6月13日(日)

 聖書では、病気と罪に関係があるように書かれています。しかし病が罪の結果としてみなすように書かれているわけではありません。たとえばヨブ記にあります が、ヨブは地上で最も正しく聖い人だったのですが、病に、それもひどい病に陥ります。パウロが病気になった時も、パウロ自信は、それはサタンの使いだと言っていますが、内容的には、神様がサタンを使って、パウロの高慢を打ち砕くた めに病気にしたという事だろうと考えられます。しかし聖書は、病=罪という公式ではないにせよ、病気と罪とが微妙に結びついて記されているのです。ですから罪と深く結びついているということはできるでしょう。
 私たちは病気になると、自分の弱さや罪に、深く気づくようになるのではないでしょうか。健康な時には気がつかない事が病気になって自分の弱さに気づく、不 安を感じる、思い煩うのではないでしょうか。病気になるということは、自分の罪に気づかされる、罪を認識する、罪の深さを知るということなのです。
 イエス様はその病人に対して、悪霊に対する時の様ではなく、手をさしのべ、力強く諭し、優しく声をかけてくださるのです。罪を自覚し、弱さを知った人間に、イエス様が愛と恵みとそして、そこからの解放である救いの福音、解放の良い 知らせを優しく示してくださるのです。
 イエス様は解決と解放をもたらすために来られました。「福音を知らせよう」とは罪の問題を自覚し、罪の問題に苦しんで神様に、イエス様にしかない解決を求 める人に語られた言葉です。イエス様の「福音を知らせよう」という言葉に応答する者として歩んでまいりましょう。そしてそれを多くの人にお伝えする者とし て歩んでまいりましょう。

『権威ある者』
マルコの福音書 1章21−28節
2010年6月 6日(日)

 イエス様の宣教活動が記されていますが、安息日に会堂に入って教えられました。そしてその会堂に汚れた霊に憑かれた者がいたのです。聖なる者を恐れ、自分 は聖なるものによって滅ぼされるという事を知っている汚れた霊が、なぜ安息日に会堂に来て、聖書の話を聞こうとしていたのでしょうか。
 イエス様が来るまでは安息日に会堂にいておとなしくしていたということは、当 時のパリサイ人や律法学者の教えは汚れた霊にとって何の影響も与えなかったのでしょう。しかしイエス様が来たら彼が慌て出したというのはイエス様とそれまでの教師たちと全く違っていたからでした。
 さて、汚れた霊に憑かれた人というのはどういう人でしょうか。様々なことを想定する事ができますので限定してはいけないと思いますが、一つ考えたのは、暗示にかかりやすい人、洗脳されやすい人、依存しやすい人、誰かに支配してもらいたい人なのではないでしょうか。
 神様は「私たちが考えるような依存関係」を求めていません。アダムとエバに自由意志を与えられました。ですから私達の正しいあり方は、依存して誰かの言い なりなのでも、自分の責任を放棄して生きることでもないのです。ただ神様が律 法を通して言っていることを守るだけのような律法主義的な服従ではなく、喜ん で神様に従い、神様に信頼して生きる歩み、自由意志をもって喜んで従う信仰を喜ばれるのです。
 今日のタイトルを「権威ある者」と致しました。この「権威ある者」とはイエス様のことです。私たちも本当の意味で、イエス様を「権威ある者」として信頼し 、自分の意思で、心から喜んで従い、仕える者として歩んでまいりましょう。

『わたしについて来なさい』
マルコの福音書 1章16−20節
2010年5月30日(日)

 イエス様は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」 と福音を宣べ伝え始めました。しかしそのイエス様のところに出かけていく人はいませんでした。イエス様のところに行くというのは、イエス様が招いてくださ ってその呼びかけに応えて、私たちがイエス様の所にいくということなのかもしれません。
 また招かれたペテロとアンデレやヤコブとヨハネのイエス様に対する応答は、あっさりしたものでした。ルカの福音書の5章を読むとその詳細が記されています。 ただ、どちらが実際にあった事なのだろうかということではなく、イエス様が「 わたしについて来なさい」と言われ、ただそれに応えて、それに従っただけだという事がここのエッセンスです。どんな事情があったにせよ、私たちがイエス様 に従うということの本質はそこにあります。そうでなければその信仰はとても脆いものになってしまうのではないでしょうか。
 イエス様は17節で「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。 」とおっしゃいました。イエス様が、ガリラヤの漁師たちを招いたように、今日集まった一人一人をご自分の福音の働きのために「わたしについて来なさい。」 と招いてくださっています。
 イエス様を信じているけれど、人見知りもあるし、言葉も得意でないし福音の働 きもできません、などとためらう方もあるかもしれません。イエス様はこう言わ れました。「人間をとる漁師にしてあげよう。」主がそのような者にしてくださ るというのです。私達は大いなる決心や決断、自分で決めたという自負心からではなく、その神様の招きに単純に応答して、その選びに感謝して、神様の喜ばれ るクリスチャン人生を全うしてまいりましょう。