ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年7月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


『立って、真中に出なさい』
マルコの福音書 3章1−6節
2010年7月25日(日)

 3章に入りますが、また安息日に起こった出来事が記されています。 イエス様が会堂に入られると、イエス様が会堂に入るのを快く思っていなかった パリサイ人たちも会堂に入って行ったのです。そしてイエス様を葬り去る口実を見つけるために、イエス様が安息日の規定をまた破るのではないかと考え、目を凝らして見ていました。
 すると、1節の「片手のなえた人」が会堂の隅にいたのですが、その人に、「立って、真中に出なさい。」と言われました。
 この箇所には片手のなえた人が人々の中に出ていくことが導かれ、また主によっていやされたことが記されています。しかし、実は、本当にいやされなければならないのは、「安息日にしてよいのは、善か悪か、救うことなのか、殺すことなのか。」と問われても、ただ黙って自分の罪を認めない人たちだったのではない でしょうか。そして、私たちもそういう者たちの一人なのではないでしょうか。 私たちは聖書を神の言葉として信じ、従おうとして歩んでいる者たちであると思 います。しかし、それと同時に示されることは私という人間は決して正しい者でも聖い者でもなく、ただの罪人だということです。私たちは神様の前には何も誇ることができません。
 その私たちが十字架によって、救いにあずかり、新しく生きることを赦されたのです。それのみならず、全ての創造主であり、赦しを与えてくださり、永遠のい のちに与るようにと導いてくださる神様は、「立って、真中に出なさい」と礼拝 へと招いてくださっているのです。私たちはこの言葉を主が私たちに呼びかけら れた招きに応答して礼拝者として歩んで参りましょう。

『安息日の主』
マルコの福音書 2章23−28節
2010年7月18日(日)

 イエス様が安息日について教えている箇所です。元々の十戒にある「安息日の律法」には何がいわれているのでしょうか。出エジプト記20:8-11と申命記5:12-15を見てみると、安息日に一番休息をとらせようとしているのは、奴隷や使用人であることがわかります。安息日は人のためにある、というのは、まず第一に、安息日は虐げられている人、重荷を負っている人、そういう人々のためにあるとい う事なのです。ところが、当時のパリサイ人は、重荷を負う人を休ませようとは思わないのです。自分を正しいとしている人たちは神様の思いが見えず、安息日の恵みにも与れていない不幸な人たちでもあるのです。
 もう一つ大事なメッセージがあります。それは安息日が天地創造を覚える日(出20:11)、そして、奴隷であった状態から救い出されたということを覚える日(申5:15)であるといいます。ただ、休めばいい日、休まなくてはいけない日ではなくて、創造主であり救い主である方を覚える日、覚えるとはつまり礼拝し感謝し新たな力をいただく日なのです。
 「人の子は安息日にも主です」というこの言葉は、天地を創造し、人を創造し、 その律法の規定よりさらに上にある権威、人間の伝統などその前には何の意味も持たない権威、その安息日をすら創造された権威を、イエス様ご自身が持っておられるという宣言です。
 そのイエス様の到来と共に神の国が到来したのです。その神の国で安息日とは、 弱っている人をはじめすべての人が安息できる日、そして神様を礼拝して過ごす日なのです。安息日は創造と救いとそして神様の愛と義と平安を覚えて、重荷を 負っておられる方と共に平安に過ごす日と致しましょう。

『新しいぶどう酒』
マルコの福音書 2章18−22節
2010年7月11日(日)

 イエス様は、取税人レビの家で食事をなさいましたが、そのイエス様の行動に対してパリサイ人たちが疑問を投げかけてきました。それは、「なぜ断食しないのか」という質問でした。
 そこで、イエス様はたとえで答えました。まず、婚礼の時に花婿につき添う友だちの例です。この花婿とは、イエス様のことです。その花婿と共にいるものは断食をせず、喜ぶ者であると教えます。私達もクリスチャンとはイエス様と共にいる喜びを分かち合う者ですね。この新しい信仰のあり方を説明するのにイエス様 はさらにたとえを話されました。
 今回はタイトルを「新しいぶどう酒」にしました。この箇所から色々なメッセージを受け取ることが出来ます。たとえば、「古い教えではなく新しい教え、律法 ではなく福音だ。」とか「古い信仰のスタイルではなく新しい信仰のスタイル、 教えを守ることではなく、イエス様と共に生きるという信仰か大切なのだ。」とか「イエス様の福音は新しいぶどう酒が発酵するように爆発的な力を持っているのだ。」あるいは「教えを守るという信仰スタイルにイエス様の福音をつぎはぎ してもダメだ。」などです。しかしタイトルに「新しいぶどう酒」に注目しました。
 当時の宗教家達は、自分たちが守ってきた伝統や形式や習慣こそ大切だと考えていました。しかし、私達はそうではなく、イエス様の与えるいのち、心の喜び、 生き生きとした福音、赦されていることの確信の中で、いつも新たにされていくということが大切なのです。
 私たちは柔軟にいつも新しい皮袋でその注がれ続ける新しい命に、すなわち「新しいぶどう酒」が注がれ続けているということを感じ、感謝しながら、喜びながら、生き生きと歩んでまいりましょう。

『罪人を招くため』
マルコの福音書 2章13−17節
2010年7月4日(日)

 当時の取税人は、ユダヤの社会の中で税を取り立てるローマの手先として嫌われ ていました。そうした事がさらに彼らの心をゆがませ、彼らは必要以上に税金を 取り立て、私腹をこやしていったのです。その事で取税人がみんなからさらに憎まれることになったのです。
 その取税人レビ(マタイ)が収税所に座っていました。みんな何の関心も示そうとしないレビに「わたしについて来なさい」と言われたのです。取税人レビを召し ただけでなく、イエス様は他の取税人たちと一緒に食事もされたのです。まさにイエス様は罪人の友となってくださいました。
 それを見てパリサイ派の律法学者たちは非難します。それを聞いてイエス様は「 医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(17節)と言われました。とても単純で分かりやすい言葉です。ここで「正しい人」とは「自分を正しいと思ってい る人」ということです。パリサイ派の律法学者たちは、まさに自分を義人だと自認して取税人を見下げる「自分を正しいと思っている人」だったのです。
 これは私たちクリスチャンへの警告でもあります。クリスチャンになって、いつのまにか「正しい人」となってはいないでしょうか。もしわたしたちが自分を罪人だといいながら、一方、罪を自覚しない人たちに対して裁く思いや優越感を抱いているなら、パリサイ人と変わりません。
 私たちが「自分は丈夫な者ではなく病人だ、罪人だ」と思い、「イエス様が必要 だ」と思って歩み続けるならばイエス様は「わたしについて来なさい」と招き続 けてくださるのです。どうぞいつもイエス様が必要ですといって従ってまいりま
しょう。