ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年8月]を短くまとめてのせています。

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 『からし種』
マルコの福音書 4章26−34節
2010年8月29日(日)

 この二つのたとえ話は「神の国」についての教えです。
 一つ目は、神の国は地に種を蒔くようなもので、その種は私たちが夜昼寝起きしている間に、種は芽を出し、成長していくが、しかし、それがどうしてそうなるのかは知らない、というのです。人は、種の成長に直接関わってはいないし、種が芽を出し、成長するのは人間の業、人間の力ではなく、人間の力を超えた神様の力が自然の中で働いているということを表しています。それと同じように神の国も、神様ご自身の力によって大きくなっていくのです。
 もう一つは「からし種」のたとえ話が記されています。直径1ミリにも満たない極小の種が成長すると、3m〜4mにも成長するそうです。イエス様はこのからし種を引き合いに出して、最も小さなものが、最も大きくなることを強調しています。取るに足らないもっとも小さな存在であった使徒たちでしたが、やがて、ローマ帝国を席巻し、世界中のどの帝国よりも大きくなっていきました。イエス様の約束は現実のものとなっていったのを私たちは知っています。
 この二つのたとえから、私たちは改めて、神の国は人間の力を超えた神様の力によって大きくなるものであることを覚え、私たちの目に見える部分で落ち込んだり希望を失うのではなく、目に見えない神様に信頼して、私たちの知らないところで大きく育っている神の国に期待し、希望を持って歩みましょう。そして「からし種」のような私たちであっても、神様が大きく成長させてくださるというイエス様の約束に信頼したいと思います。すでに私たちに明かされている奥義を他人事ではなく自分のものとして、大切にし、また人々に伝えてまいりたいと思います。
 『持っている人』
マルコの福音書 4章21−25節
2010年8月22日(日)

 二つのたとえが記されています。
一つは「あかり」のたとえでした。「あかり」は升の下に置かれることはありません。寝台の下に置かれることもありません。これは燭台の上に置かれ、家中を照らします。イエス様の「あかり」を与えられた私たちもそのような者として生きることが言われています。
 もう一つは「はかり」のたとえです。私たちはそれぞれに自分の「はかり」を持っています。しかしイエス様に出会ったとき、主が示される生き方、神様の「はかり」があることを知らされ、変えられていく、そのようにして、私たちの信仰は成長していく、主にあって日々、新しくされていくのです。
 「持っている人」とは福音を与えられた人のことです。この「福音=み言葉を聴いて生きること」によって、さらに神様の恵みを知り、恵みの中に生きることが教えられています。ですから、クリスチャンである私たちは「持っている人」です。持っている人は持っているだけでなく、それを人々に分かち合う務めが与えられています。福音を人々に伝えるならば、福音に生きることの喜びは増し加えられていくのです。
 私たちはまことの光なるイエス様を「持っている人」であり、福音を「持っている人」です。イエス様という光を私たちという燭台の上に掲げ、この世界を照らし出す者として、またイエス様のみことばを聞き続け、聖書の真理を増し加え、自分のはかりではなく、神様の「はかり」で恵み豊かに歩んでまいりましょう。イエス様の光と神様のはかりを持っている人として、そしてそれらを取り上げられるものではなく、ますます増しくわえるものとして歩んでまいりましょう。
  『実を結ぶ人たち』
マルコの福音書 4章1−20節
2010年8月15日(日)

 有名な種まきのたとえです。豊かな実りを与える種は「聖書の言葉」です。そしてその種をどのように受け取っていくか、ということを教えています。良い地になるためには、そして良い地であるためには何が必要でしょうか。石や雑草がとりのぞかれよく耕され、太陽の光と水と栄養が豊富な地です。
 私たちはよく耕された土地と同じく、柔軟な心をもって御言葉を柔軟に受け止め受け入れることが大切です。そして抜いても抜いても出てくる、心の中の罪の雑草をむしり続ける必要があります。
 その上で太陽の光と水と栄養です。
 イエスはこう言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)太陽の光はイエス様です。イエス様の言葉を聞くだけではなく応答する、つまりイエス様に従うのです。水についてはイエス様は「わたしを信じる者は、・・・生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37)といい、「御霊のことを言われたのである」(ヨハネ7:39)とあります。信じる者に聖霊様が与えられて、私たちの渇ききった心に泉、生ける水が与えられているのです。与えられた聖霊様からいつも生ける水をいただきましょう。栄養は教会での礼拝や、私たちの交わりです。パウロは「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち」(Tヨハネ1:7)といいました。
 聖書のみことばは、人生を豊かにする種です。その種が蒔かれていく場所は、私たちの心です。種は蒔かれ続けています。実を結ぶ者となり、実を結び続けましょう。
『赦す権威、滅ぼす権威』
マルコの福音書 3章20−35節
2010年8月8日(日)

 イエス様の周りには批判の目を向けていた宗教指導者たちがいました。彼らはイエス様を「悪霊のかしら」といって批判したのです。そんな彼等に対してイエス様はたとえをもって話されました。
 27節のたとえばユーモアにあふれるものです。いわば「正しい強盗の押し入り方」という感じでしょうか。ここで言う「強盗」とは誰でしょうか。いくつかの解釈が可能だと思いますが、一番強いものを縛り上げることのできるお方であるイエス様のことではないでしょうか。
 私達の心は、悪霊とまでは言いませんが、しかし罪に支配されています。そしてイエス様は、私たちの心を占領し、罪を縛り、そこから解放をもたらしてくださ る方です。私たちは、自分の力では解決できません。
 イエス様は、どんな罪も赦してくださいます。イエス様は、十字架で、私たちの身代わりになってくださいました。それは私たちの罪をすべて引き受け、身代わ りに死んでくださったということです。「赦されない罪がある」とありますが、 宗教指導者たちに対してイエス様は言われたのです。彼らは「イエスは悪魔のか しらだ」と言ったのです。本当に人を自由にし、罪を赦し、命を与えるイエス様 の働きを全く否定してしまうなら、イエス様の約束された救いを受けることは当然できません。
 イエス様は「赦す権威」を持っておられます。そのイエス様に従いましょう。イエス様は「滅ぼす権威」を持っておられます。心にある自己中心、憎しみ、ねたみ、心を縛るもの、罪を縛っていただき、滅ぼしていただき、イエス様に私たちの心を支配していただきましょう。
 「赦す権威、滅ぼす権威」を持っておられるイエス様によって、恵みの人生、素晴らしい信仰生活を歩ませていただきましょう。

『任命』
マルコの福音書 3章7−19節
2010年8月1日(日)

 イエス様が十二弟子を任命される箇所です。このリストを見ると驚かされます。 「雷の子」というあだ名の漁師、ローマ政府に手先と揶揄されていた取税人、反対に「ローマ政府打倒」を叫ぶ過激な熱心党員、そしてイエス様を裏切るイスカリオテのユダもいたのです。そのような十二弟子ですが、ルカの福音書を読むと「祈りながら夜を明かされた」(ルカ6:12)とあり、徹夜で祈った上で、選ばれたというのです。
 一見、一致や神の国の福音を担えるとは思えないような人たちです。しかし、イエス様は彼らを弟子として選び、また一度も、この弟子たちを選んだことを後悔したとか失敗したとはおっしゃいませんでした。
 今日のタイトルは「任命」といたしました。イエス様が十二弟子を選ばれた、「 任命」されたということからこのタイトルをつけましたが、これは、十二人に限 らず私たちにも言えることです。神様は私たちを、イエス様の弟子となるように、神の国に入るように、そして神様からの使命を全うするように任命してくださったのです。
 14,15節を見ると、イエス様は「身近に置き」「遣わして福音を宣べさせ」「悪霊 を追い出す権威を持たせる」ために「任命」されたとあります。そして私たちも これらのことのために「任命」されています。
 イエス様の下にきた病の人、悪霊に憑かれた尋常な数ではありませんでした。今 私たちの周りの困難な中にある人、苦しんでいる人も尋常な数ではありません。 その方々にイエス様を伝えるのは、本当にイエス様を愛する、イエス様の弟子とされて任命されている私たち一人一人によって語られていくべきものなのです。 今週も、イエス様に「任命」されたものとして歩んでまいりましょう。