ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年9月]を短くまとめてのせています。

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 『恐れないで』
マルコの福音書 5章35−43節
2010年9月26日(日)

 この箇所は前回の続きです。会堂管理者のヤイロが、娘が死にかかっているからイエス様にすぐ来ていやして欲しいと、訴えたのですが、前回の箇所のように十二年間も長血を患っている女性をイエス様はいやしている間に娘が死んだという連絡が入ったのです。
 イエス様はこの少女をよみがえらせる奇跡を行われました。しかし考えたいことがあります。あの十二年間長血の女の病が奇跡的にいやされたとしても、あの女性はそれ以後もう一切の病気にかからなかったわけではありません。このヤイロの娘も、もう死ぬことがなくなったわけではなく、いつかは死ぬに違いないのです。そういう意味で、この奇跡は何の意味があるのでしょうかと考えたいのです。
 長血の女性は後ろからイエス様の衣に触っただけで、病そのものはいやされたのです。しかしイエス様はそれだけで、女性を去らせようとはなさらず探しだし、正面に立たせ、声をかけているのです。大事な事は、イエス様の正面に連れ出され、そのイエス様と人格的に出会い、そのかたを信頼するようになるという事なのです。この箇所にあるヤイロの娘のところにもわざわざ行かなくてもよみがえったでしょう。しかしイエス様は、あざ笑う人たちの嘲笑をあえて受け流してまで少女のもとを訪ね、「タリタ・クミ」と優しく声をかけられたのです。
 イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。マルコ福音書には「福音とは、どのようなものか」ということを示すために書かれています。イエス様の福音は「私たちの恐れを取り除くもの」だと言えるでしょう。イエス様に信頼し、与えてくださる単なる望み以上の望みを、改めて覚え歩み続けてまいりましょう。
 『あなたの信仰が』
マルコの福音書 5章21−34節
2010年9月19日(日)

 イエス様が行かれる場所には、たくさんの人たちが集まってきました。その中に今にも死にそうな12歳になる少女の父と、長血をわずらう長い苦しみと不安の12年間を過ごした女性がいました。今回は「長血の女性」について見てまいります。
 この女性の信仰は、パリサイ人や律法学者の熱心な信仰とは違います。彼らの熱心さは、自分が正しくなるための信仰、あるいは自分の正しさを主張するための信仰です。対して、この追いつめられた女性の迷信的ともいえる信仰は、自分を主張するものではありません。なりふりかまわずに神に頼ろうとしているのです。
 確かにご利益を求める信仰ではあります。しかしイエス様はこの女性の迷信的な信仰を正しい信仰に導くために、女性をご自分の正面に連れだしたのです。本当なら、この女性はひそかにそっと帰りたかったのでしょう。しかしイエス様の顔をまともに見させられ、「恐れおののき」、「ひれ伏し」、すべてありのまま申し上げたというのです。神様を心から恐れ、心から礼拝するということは本当の信仰のあり方です。心からの恐れが、神様への信頼を生み出し、心からの礼拝が感謝を生み出し、真の信仰が救いを生み出すのです。イエス様がこの女性の素朴で純粋な、しかし必死な信仰を喜ばれました。
 私たちも自分の信仰をチェックし、イエス様に喜ばれる信仰と、その信仰にふさわしい信仰生活を歩んでまいりましょう。私たちも、神様を恐れ、神様の前にいつもひれ伏し、神様の最善を信じ、時には冷静に知的に、しかし時には単純で素朴でなりふりかまわずすがりつく信仰、知性も心も力も尽くす信仰に歩んでまいりましょう。
 『主があなたに』
マルコの福音書 5章1−20節
2010年9月12日(日)

 イエス様と墓場にすむ弟子たち一行が向こう岸に着くと、汚れた不吉な不気味な場所である墓場から一人の怪しい男がやって来たのです。
 この人の背景については何も書いてありませんが、何かがあって家も家族も失った人でした。ただ叫び、ただ自分自身を傷つけるしかなかった、そんな状態の人でした。その上彼は「汚れた霊につかれていた」というのです。しかしこの人はイエス様によって2000もの悪霊を豚へと追いやっていただき、いやされ、救われたのです。
 さて、豚を飼っていた人や町の人たちは、男の回復を見ましたが「この地方から離れてください」と言ってきたのです。「関わりを持ちたくない」「波風を立てないでくれ」とでも言いたかったのでしょうか。
 そんなわけもあってゲラサ人の地ではイエス様は彼一人にしか関わりませんでした。しかしイエス様は、一人の人を大切になさる方であることが分かります。一人の為にわざわざ嵐の湖を渡って行かれたのです。
 イエス様はあなたに、皆さん一人一人に、関わって、あなたを救おうとしています。あなたを愛し、あなたの問題を解決に導き、そして天の御国へ招こうとしておられます。またあなたを通して神の国の業をなそうとしています。いやすでにそのように働いておられるのを皆さんはご存知なのではないでしょうか。「主があなたに」すでに多くのこと、恵みの業、愛、素晴らしい祝福をしてくださっているのです。ですからイエス様がおっしゃったことに応答してまいりましょう。
 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」マルコ5:19
 『さあ、向こう岸へ』
マルコの福音書 4章35−41節
2010年9月5日(日)

 前回は「種」が成長することを通して「神の国」についてのたとえが語られていました。イエス様はここまで多くのたとえを用いて話されてきましたが、それらのたとえ話の後でこの箇所の出来事が起こるのです。
 イエス様は「さあ、向こう岸へ」と弟子たちに語られました。それは単に場所を移動しようと言われたのではなく、実際にみ言葉に従っていくように、「さあ、向こう岸へ」と呼びかけられたのではないでしょうか。そしてこの出来事が起こってくるのです。みことばを聞いた者が、これから起こる嵐の中で試されるのです。
 その嵐の中で弟子たちは叫び、イエス様から、「信仰がないのか」と言われるようなことでした。それでも私たちはこの方にすべてをさらけ出して、何でも打ち明けていくしかないのです。主は私たちのすべてをご存じです。そればかりか、イエス様は私たちの心の中の嵐に向かっても「黙れ、静まれ」と言われるのです。
 私たちの人生には叫びたくなるようなことが起こってきます。しかし私たちの叫びを聞いておられる方がおられるのです。その方は共におられ嵐を鎮めてくださる方なのです。
 この出来事で弟子達は失敗したかのように思いますが、自然をも支配するイエス様が共にいてくださる恵み、そのイエス様に従う恵みを深く味わったのです。私たちもみことばを聞き、試されます。しかし自分の限界を知らされ、ともにいてくださるイエス様がどういうお方かをさらに深く知る恵みにあずかることができるのです。私たちも主の言葉に聞き、これに従っていきましょう。そして、主が共におられる恵みを分かち合って参りましょう。