ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年10月]を短くまとめてのせています。

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   2010年10月31日(日)出エジプト記 3章7−14節
『私を救って下さった方』 
山口 繁師(東林聖書キリスト教会)

  『かたくなな心』
マルコの福音書 6章14−29節
2010年10月24日(日)
 イエス様の名前は知れ渡り、ヘロデ王のところにも伝わっていきました。バプテスマのヨハネを殺した張本人のヘロデはバプテスマのヨハネが、死人からよみがえったのではないかと恐れました。
 ヘロデの人生には、人生の方向転換をするチャンスがありました。バプテスマのヨハネが彼の罪を指摘した時です。ヘロデは指摘された問題に対して、「正しい」と思いながらも、聴こうとしませんでした。そして、ヨハネをただ牢に入れておくのです。もしかしたら、聞く気にさえなればいつでも聞ける、そのうち、いつか悔い改めれば、と思っていたのかもしれません。
 しかし神様が求めておられる応答はこうです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」ヘブル3:15
 自分の罪や過ち、失敗や弱さが示されることは、辛いことですが、本当の祝福につながることでもあるのです。そしてそのチャンス「今」というこの時を、延ばさず、神様に対して素直さを持ち、ありのままの自分を認め、変えてくださいと願うことが大切です。
 信仰に生きる上での決心は、周りに何も問題を引き起こさないわけではありません。しかし、勇気ある一歩と、それを続ける事が求められています。後になって、「あのときに戻れたら」といって取り返しのつかないことになってからでは遅いのです。勇気ある一歩の決心は必ず実りをもたらしてくれます。ましてや聖書が約束している祝福は想像を超える恵みなのです。どうぞ「かたくなな心」を捨てて、いつも神様に心を開き、信頼して、神様に対して素直な人生を歩んでまいりましょう。

 2010年10月17日(日)マタイの福音書 2章19−23節
『ナザレと謙遜』 小林正則師

 『派遣』
マルコの福音書 6章7−13節
2010年10月10日(日)
 イエス様は十二弟子を呼び寄せ、派遣しました。同じようにクリスチャンは、この世に派遣されているのです。
 弟子達は、二人ずつ派遣されました。これは二人の力が合わさることを意味しますが、同時に謙遜を学び、互いに尊敬しあうべきことを学んだのでしょう。また悪霊を追い出す権威が与えられましたが、これは神様の力を信頼し神様に従ってより頼むことを学ばされたはずです。人の力によるのではなく神様の権威によるのです。
 持ち物がわずかなのも、神様だけに頼る歩みを学ぶためであり、弟子達はその恵みを確かに感じ取ったことでしょう。人の世話になることを通しても弟子達は、神様により頼み、謙遜を学んだのです。もちろん受け入れられないこともあったでしょうし、門前払いもあったでしょう。しかしイエス様は卑屈になる必要はないことを教えられました。
 イエス様は、宣教の仕方というよりは、態度について教えられたのです。神様の権威の下にへりくだり、信頼し、人を通して御国の福音が確かに宣べ伝えられていくことを学び続けました。そうして成長させていただき、そのような私たちがキリストの香りを放ち、世の光、地の塩として本当の意味でイエス様のことを証しすることができるのではないでしょうか。
 私たちはイエス様の弟子とされました。イエス様からこの世に派遣されています。私たちはイエス様が教えてくださったように、神様の権威のもとに生き、神様にすべてをゆだねていくことを実践し、それだけでなくその素晴らしさを体験し、この福音宣教のすばらしいわざに携わらせていただくことに感謝して歩んでまいりましょう。
 『不信仰』
マルコの福音書 6章1−6節
2010年10月3日(日)
 郷里の人々はイエス様を歓迎しませんでした。そしてイエス様につまずいたのでした。イエス様はそれを「不信仰」とおっしゃいました。
 まず彼らは疑いました。イエス様を自分達の枠でしか捉えることが出来なかったのです。自分達と同じものに過ぎない、そんな権威があるわけがないと、自分達の枠に押し込めて疑ったのです。
 また、自分達の安定がおびやかされたくない、乱されたくないという思い、変化を恐れ嫌う思いがあったのです。あるいはイエス様への批判が町に向けられては困る、そんな思いもあったかもしれません。このままでいたい、自分達の枠を守りたい、反対に言えば、安定を乱されたくない、自分達の枠を壊されたくない、という思いがあったのです。
 つまり自分達の枠を壊さないように、自分達の枠でしか捕らえることしかしない、という自己中心の罪であったのです。それを不信仰と聖書は言っています。私たちが神を信じられない、イエス様を信じられないのは、神様が信用できないとか、聖書が信用できないというように、神様の方に、聖書の方に何か欠陥があって、信用できないのではなく、自分達のかたくなささが神を信頼出来なくさせているのです。
 信仰とはかたくなに自分を守ること、自分の枠に様々ことを当てはめていくことではなく、神様にゆだね、神様に自分を壊していただき、神様に作り変えていただく、そして神様の枠組みを自分のものとするということです。神様にゆだね、神様に自分を作り変え続けていただき、神様の枠組み、神様の目線をいつも大事に歩んでまいりましょう。勇気と信頼を持って、今週も主とともに歩んでいきましょう。