ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年11月]を短くまとめてのせています。

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  アドベント1 『従順』
ルカの福音書 1章26−38節
2010年11月28日(日)

 救い主イエス様の母となったマリヤの純粋な信仰と服従の姿「従順」の姿を学びたいと思います。
29節 に「ひどくとまどって」とあります。マリヤは天使の現れたこと、そしてそのメッセージにひどくとまどって、「いったい何のあいさつだろうか」と考え込んだのです。私たちの人生にも戸惑いや不安あるでしょう。マリヤも私たちと同じように心配したり、恐れたり、戸惑ったりする普通の女性でした。
戸惑うマリヤに対して、天の使いは、マリヤの妊娠と出産を予告します。未婚の女性が妊娠することは常識的には考えられませんでした。もちろん処女であるマリヤが妊娠すること自体が常識的に信じられないことです。しかも、その男の子は、特別な存在として生まれてくることが予告されています。そんな御使いの言葉にマリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう。」(34)と反応します。マリヤは最初、素直に受けいれることができなかったのです。マリヤは常識人であり、普通の女性であったのです。
しかし、マリヤは、神様のご計画が明らかにされたときに、素直に、真実に主のみこころを受け入れることができたのです。「私は主のはしため」(38)と謙遜に、そして「あなたのおことばどおりに」と神様のみこころに対する服従するとき神様に取り扱われ、神様の御心に従順に従ったのです。聖書のことばや周りの方々の意見、環境による導きに、耳を傾け、敏感に察知し、神様に取り扱われて、謙遜な心を持って、信仰生活を送ることが大切です。私たちも、マリヤのように、神様のみことばに「従順」に従い続ける者として歩んでまいりましょう。
 『内側から』
マルコの福音書 7章1−23節
2010年11月21日(日)

 イエス様の行く所には、大勢の群衆がついてきました。そこには、イエス様の働きに危機感を覚えていたパリサイ人や律法学者たちもいたのです。彼らは、自分たちの伝統や習慣を守るためにイエス様を訴え、排除しようと考えていたのです。そんな中、イエス様の弟子の何人かが、手を洗わないでパンを食べたということを目撃したのです。当時、「汚れた物」について沢山の規定があり、衛生面からではなく、宗教的な汚れを排除するという意味で、手や体、食器などを丁寧に洗ったのです。
 洗脳や脅しは、人を縛り付けます。たとえ鍵が開いていてもそこから逃げられなくするのです。この宗教的な規定は、時には、その人の人生を縛り付けてしまいます。当時の人たちは、「手を洗わなくてはいけない」などたくさんの禁止事項があり縛り付けられていたのです。
 今日のタイトルは「内側から」としました。イエス様は、「人から出るもの、人の心にあるもの、これが、人を汚す」と言われました。ですから、イエス様のなさる働きの最も大きな働きは、その人の内側を新しく造り変えることだったのです。パリサイ人や律法学者たちは、手を水で洗いきよめました。そして人々を縛り付けたのです。しかし、イエス様は私たちの内側、私たちの心を十字架の血によってきよめてくださったのです。そして縛りから開放してくださったのでした。
 外側に目を向けてきよくあろうとすることは悪い事ではありませんが、不要な伝統に縛られ、人を裁くことにつながってしまうということに細心の注意が必要です。私たちは、むしろ、神様のみこころを謙遜に求め「内側から」きよめてくださるイエス様に全幅の信頼を置いて「内側から」きよめられ、ゆるされていることを確信し歩んで参りましょう。
 『鈍くなってしまう心』
マルコの福音書 6章45−56節
2010年11月14日(日)

 前回は、5千人の給食の箇所を読みました。
さて、その後すぐにイエス様は自分で群衆を解散させ、強いて弟子達を舟に乗り込ませ、向こう岸にいかせました。ヨハネの6章には、このパンの奇跡の後、人々はイエス様を王にしようとしたと書かれています。5千人の給食は素晴らしい奇跡なのですが、しかし人を誤った信仰に導いてしまうものでもあるのです。
 そのせいでしょうか、弟子たちが、ガリラヤ湖上で、いくら漕いでも前に進まない中、なんとイエス様が湖の上を歩いて来られたのですが、イエス様だと分からなかったのです。しかも、不可解なことにイエス様も「そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」と記されているのです。もちろんイエス様は弟子たちを見捨てたわけではありません。この「通り過ぎる」という表現は、旧約聖書で「神の臨在」を現す時の用語になっている(T列王記19:11、エジプト33:22)のです。ですから今舟を漕ぎ悩んでいる弟子達に、イエス様はともにいることを現そうとしたのではないでしょうか。
 この奇跡の後、聖書は弟子達がパンことから悟らなかったと言います。弟子達が「パンのことから悟るべきことはなにか」といえば、イエス様がともにいてくださることを求め、ともにいてくださることを感謝する、ということだったのです。
 「鈍くなってしまう心」と題しましたが、目に見えることや、私たちに直接感じられる利益を追い求めるのではなく、私たちは神様の臨在を覚え、イエス様のともにいるという約束を覚え、聖霊様が私たちのうちに住んでいてくださることを覚えて、委ね導いていただきましょう。
  『あふれるばかりの恵み』
マルコの福音書 6章30−44節
2010年11月7日(日)
 
イエス様が弟子たちを色々な町に派遣されましたが、その弟子たちが帰って来ました。イエス様にその報告をしたところから始まります。
 弟子達は意気盛んに、自分達の伝道の成果を報告したのではないでしょうか。そのめざましい成功を報告を受けてイエス様は、「休みなさい、人を避けて寂しい所にいってしばらく休みなさい」というのです。私たちが疲れている時、休みなさい、とイエス様は声をかけてくださいます。また、うまくいき過ぎている時も危険です。自分が何か出来たと思うとき、私たちは本当に立ち止まって神様を見上げなければならないことを教えようとしたのかもしれません。
 さて、弟子達はイエス様の言葉を素直に受けていれ、人を避け、舟にのって寂しい所に行ったのですが、群衆はついて来てしまいました。その群集をみてイエス様の目には、弱り果て、倒れているように「飼い主のない羊のよう」に見えたのです。イエス様はその群衆のために全力を注いで「飼い主が誰か」を語りつづけたのです。そして5千人の給食という有名な箇所となります。
 このパンの奇跡を通して、みんなの者が食べた後、残りを集めると12のかご一杯になったという事は、「神のあふれるばかりの恵み」を表しています。私達の証しは「飼い主が誰か」ということとその方の「あふれるばかりの恵み」を証しすることです。それが私たちの神様から与えられた使命、生き方なのです。
 私たちは、いろいろな不安や心配がうずまく世の中に生きていますが、主の御手にゆだね、「あふれるばかりの恵み」に感謝し、日常の出来事の中に主のすばらしい御業を見ながら歩んでまいりましょう。