ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2010年12月]を短くまとめてのせています。

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『安らかに』
ルカの福音書 2章25−38節
2010年12月26日(日)

 この箇所はクリスマスの期間読んでまいりましたルカの福音書の続きの箇所です。「シメオン」と「アンナ」からご一緒に学びましょう。
 シメオンは「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」人であったと書かれています。この人は神を見失わずに、希望を失わずに忍耐し待ち続ける信仰の人でありました。
アンナは若いときからのやもめで、とても不幸な人生でした。家族についても書いてありませんので、当時のやもめが独りで生き続けることは、現代では想像を絶するつらいことでした。
 「シメオン」も「アンナ」も、共に、それぞれに長い人生を歩み、苦労を重ね、年老いて、もう人生の終わり近くになっていました。彼らはエルサレムの神殿で希望を失わず、祈りをささげ続け「神の救い」に触れさせていただいたのです。
 私たちは、一年の終わりを迎えようとしています。この一年の間、失敗したこともうまくいかなかったことも、後悔することも、涙を流したこともたくさんあったことでしょう。しかし聖書は「シメオン」や「アンナ」のように、祈りの中で「安らかに」平安のうちに終わる道があることを教えています。思い返す一年の悔やまれることや痛み、悲しみ、それらすべてを私たちはそのまま抱いたまま終わるのではなく、私たちは、それらの一切を、今、神様に委ね、「安らかに」そして感謝を持って終わる道があるのではないでしょうか。
 今、神様にすべてを委ねましょう。私たちも神様に感謝の祈りをささげましょう。心を静めて神に祈りましょう。「安らかに」この一年を終え、新しい年にまた新しくされて歩んでまいりましょう。
 クリスマス礼拝 『降誕』
ルカの福音書 2章1−7節
2010年12月19日(日)

 クリスマス、おめでとうございます。神様はそのご計画通りに、神様の時に、救い主イエス・キリストを地上に「降誕」させてくださいました。イエス様がこの世界に生まれるという計画は永遠の昔からされていましたが、旧約聖書の預言を通してしてくださった約束を実行してくださるにあたって様々な備えをしそれを実行してくださっていたのです。
 何のためにわざわざこんな手の込んだことをなさったのでしょうか。それは私たちの救いのためです。もっと厳密に言うなら、私たちのどうしようもない罪の問題を、このイエス様の十字架の身代わりによって解決するためです。そのために救い主が必要であり、そのために神様の独り子である方が人間として、しかも王である方なのに、貧しく、最も低い方となってくださったのです。その背景には神様の側の私達への熱心な思いがあります。それを一言で言い表した聖書の箇所があります。
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16
 そしてローマ人への手紙には「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(8:28)と書かれていますから、救い主の誕生のためにすべてを備えてくださった神様は、私たちの人生においてもすべての必要を備えてくださるお方なのです。
 確かに私たちの人生には、益とおもえることばかりではありません。しかし、救い主の「降誕」の出来事の背景を思い出し、すべてのことを働かせて益としてくださる愛の神様であることをおぼえ、神様の愛に信頼して歩んでまいりましょう。
 アドベント3 『賛美』
ルカの福音書 1章46−55節
2010年12月12日(日)

 ここは「マリヤの賛歌」と呼ばれる箇所です。今年のアドベントはマリヤに注目してここまで読んでまいりました。最初は戸惑い、受け入れられなかったマリヤが、従順に従い、またエリサベツの言葉のごとく天使のことばを「信じきって」歩みだすのです。そして歌った賛歌がこの箇所ですが、私達もマリヤの賛歌から賛美の本質を学びたいと思います。
 このマリヤの賛歌は「マグニフィカート」とも呼ばれます。ラテン語で「マグニフィカート」はあがめる(46節)という意味です。マリヤは「この卑しいはしために目を留めてくださった」(48)と歌います。神様は資格や素質、才能や努力によって評価される方では在りません。マリヤにはそれらのものは何一つなかったといえるでしょう。だかそこそ目を留めてくださった神様をあがめ賛美したのです。
 また「大きなことをしてくださった」(49)と言います。マリヤだけに大きな事をされたわけではありません。もちろん救い主の母となることはすばらしいことだと思いますが、救い主はその母だけの為ではなく、どの時代、どの地域の人にも等しく、いわば全人類に、そしてそれは私達にも、救いを与えてくださったのです。
 そしてそれは大きな「憐れみ」(54)の故です。「憐れみ」とはもともと「はらわたが痛む」という意味からきています。神様は単なる同情ではなく、飼う者の無い羊のようにさまよう私たち人間の姿を「憐れみ」、救い主イエス様をこの世に送ってくださったのです。
私たちもこのクリスマス、マリヤと同じように素晴らしい救い主なる方を賛美し、ますます神の豊かな恵み、あわれみに感謝し、神様に満たされて歩んでまいりましょう。
  アドベント2 『信仰』
ルカの福音書 1章39−45節
2010年12月5日(日)

 イエス様の誕生を知らされたマリヤが、親類でバプテスマのヨハネの母となったエリサベツを訪ねた出来事の箇所です。
マリヤは不安や心配をたくさん抱えていました。確かに「みことばに従順」に従ったのですがその後は何も悩まなかったと言うわけではありません。だからこそ、彼女は、神様が教えられたように、ナザレから山向こうのユダの町まで出かけ、エリサベツに会おうとしたのでしょう。
 さてエリサベツに挨拶すると、相談も何もしないうちにエリサベツから、「あなたは女の中の祝福された方。」と大声で話し出したのです。そして「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(45節)という祝福の言葉を聞きます。不安や心配を抱える中、自分が神様に祝福された者であると告げられたのです。どんな気持ちでその言葉を聞いたのでしょうか。
 クリスマスは、言うまでもなく、「神様の救い」が到来する出来事です。様々な悩み、将来への不安や問題を抱え、絶望を覚え、戸惑い、何の助けもないように感じられる私達、人生を苦労して生きなければならない私達人間を救う「神様の救いの出来事」がクリスマスですが、それは、私たちが信じきって歩みだす時でもあります。
 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、なんと幸いなことでしょう」という神様の救いの約束に心を向けましょう。そしてそのメッセージを信じきってこの一年を閉じ、新しい年を迎えてまいりましょう。また、自分だけではなく、自分の周りの人々、世のすべての人々の幸いを祈りつつ、クリスマスを祝って喜んでまいりましょう。