ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年1月]を短くまとめてのせています。

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 『パン種』
マルコの福音書 8章14−21節
2011年 1月30日(日)

 弟子たちは、2度目のパンの奇跡で興奮していたのか、7つのかごに余ったパンをほとんど忘れてしまい、船の中にはパンがたった一つしかなかったというのです。その時、イエス様がその気になっているパンに関連する話をされました。すると弟子達はお互いに責任のなすり合いが始まったのです。弟子たちは、5千人の給食を忘れていましたが、さらに直前に起こった4千人の給食の体験をも忘れ、イエス様がいのちのパンであることを忘れてしまっていたのです。
 さて、イエス様は、本当は何を悟るようにと教えたのでしょうか。イエス様が「十分気をつけなさい」と言われたのは、「パリサイ人のパン種」そして「ヘロデのパン種」に気をつけなさいということでした。
「パリサイ人のパン種」とは偽善のことです。自己正当化、自己義認の罪です。見せるための善、人を裁く罪です。この偽善のちいさな種が入るだけで、その罪は大きく膨らみ、人を裁き、自分の正しさ、見える善にとらわれ、本質的な神様の前でのへりくだりをなくさせるのです。
 「ヘロデのパン種」とは神様を軽視することです。戒め、律法などなんとも思わない人、それがヘロデです。それは高慢、高ぶり、無秩序といったパン種でもあるでしょう。自己保身、地位や立場、名誉といった目に見えるものを大事にして心の問題は気にもとめず、イエス様を信じようとしない「不信」の種でもあります。
 どうぞ偽善ではなく愛を、高慢ではなく感謝を、不信ではなく神様への信頼を、大それたものではなく、今日一日のそういった小さな信仰であっても、天の御国のパン種(マタイ13:33)を神様に豊かに成長させていただき、互いに勧め励ましあいながら歩んでまいりましょう。
『今の時代』
マルコの福音書 8章1−13節
2011年 1月23日(日)

 この箇所の少し前に同じようにイエス様は、大勢の人々のお腹を満たした箇所がありました。あの五つのパンで五千人の人を満腹させたパンの奇跡の箇所です。
 しかしそれを体験した弟子達は、あっさりとその体験を忘れてしまったのでした。そして、これは弟子達だけの問題ではなく、私たちの問題でもあるのではないでしょうか。私たちもある困難な問題に遭遇した時に必死に神様に祈り続け、その祈りが聞かれた時、喜び感謝もするのですが、それは、またすぐ忘れてしまうということはないでしょうか。
 この奇跡の後、パリサイ人がやって来て、天からのしるしを示して欲しいと求めて来たという記事があります。イエス様が神様から遣わされた救い主、本物のメシヤならば、もっと決定的な天からのしるしが欲しい、といって試したというのです。それを聞いてイエス様は「今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」(12)というのです。「しるしが与えられない」と言うのは奇跡を行なわないということではなくて、奇跡を行なっても、悟る心がなければ、いっさいのしるしは見ても無駄であるということなのです。
 私達が生きる「今の時代」も同様で、見ようとすれば見ることが出来るのに、聞こうとすれば聞くことが出来るのに、そうしないのです。
 どうぞイエス様に救われている私達は、すでにたくさん示されている、神様のしるしを見せていただきましょう。そして、弟子達のようにすぐに忘れてしまう者ではなく、また「今の時代」に染まるのではなく、しるしを悟り、神様の恵みに目を留め、感謝し賛美する神様の御国の時代に歩んでまいりましょう。
  新年礼拝『開け』
マルコの福音書 7章31−37節
2011年 1月16日(日)

 イエス様のもとに、耳の不自由な人が連れて来られたときのことです。
 「耳が聞こえず、口のきけない」とありますが、いわばコミュニケーションの障害といえるでしょう。情報が入ってこない障害です。そこには孤独、孤立という問題があります。そういうこともあってか、聖書のこの人は「連れて来て」とあります。自分からイエス様のところに来たのではなかったということです。
 イエス様はこの人だけを群集の中から連れ出し、そして「天を見上げ、深く嘆息して」とあります。嘆きため息をついたのです。それは、この耳の聞こえない人の苦しみや悲しみ、孤独を感じ取り、自分自身のことのようにまで思ったからかもしれませんし、あるいはこの人が代表する私たちの状態、苦しみ、悲しみ、孤独、あるいは堅くなさや頑固さ、そして罪に嘆いて深く息をついたのかもしれません。
 そしてイエス様は「エパタ」すなわち、「開け」と言われました。すると耳が開かれ、そして、はっきりと話せる様にもなったというのです。私達は神様の言葉に耳を閉ざしてしまいやすいものでもあります。また、私たちが正しく話せない、正しく伝えられないのは、神様の言葉を本当に正しくよく聞いていないからなのかもしれません。
 イエス様はこの罪の世に嘆かれ、また私たちが苦しむとき、望みがないように感じたり、大きな問題を抱えてどうすればいいのか分からなかったりするときに同情してくださり深く哀れんでくださいます。そして、私たちに「開け」とおっしゃってくださいます。
どうぞ私達も神様に耳を開いていただいてみ言葉を聞き、口も開いていただいて、イエス様の恵みを語り続けてまいりましょう。
 新年礼拝『でも』
マルコの福音書 7章24−30節
2011年 1月 9日(日)

 イエス様の奇跡や教えが続いているところです。ある家に入られました。そこにすぐに大きな問題を抱えたひとりの異邦人の女性がやって来ました。悪霊につかれた娘がいたのです。この女性のについてイエス様はマタイの箇所では「あなたの信仰はりっぱ」とおっしゃっています。そのような信仰のあり方、姿勢とはどのようなものでしょうか。
 女性は必死で願うだけでなく、願い続けました。イエス様に「よくない」といわれても「そのとおり」と謙虚にしっかりと受け止め、さらに求め続け、願い続け、へこたれずに、弟子達の目など気にせずに、周りがどう思おうと、食い下がって「でも」と願い続けたのです。
 私たちは思い通りにいかないことのほうが多いわけですが、そのようなときにはあきらめも大事なのかもしれません。自分を律して制御しなければならない場合も少なくありません。
 しかし、神様に対しては、周りの目や声にひるまず、自分の中にあるあきらめに逃げ込むのでもなく食い下がって「でも主よ」という、求め続け、願い続ける信仰こそが立派であり神様が求めておられる信仰のあり方、姿勢なのです。
 神様のことばをくさらず、逃げず、反発せず、素直に、そして謙虚にしっかりと「主よ。そのとおりです」と受け止める態度を求めておられます。しっかり受け止めた上で、食い下がって「でも主よ」という、求め続け、願い続ける信仰こそが立派であり神様が求めておられる信仰のあり方、姿勢なのだと聖書は教えているのです。
 求め続け、謙遜に受け止め、でも豊かな恵み、祝福、救い、いやしを食い下がって求める信仰を持って、歩んでまいりましょう。
 新年礼拝『さあ、目を上げて』
創世記 13章14節
2011年 1月 2日(日)

 この箇所は連合の2011年の主題聖句です。
創世記12章から信仰の父アブラムの歴史が始まります。しかし、約束の地カナンに入ったアブラムは深刻な飢饉に遭遇し、エジプトに難民として下ったというのが12章の後半です。そして「妻」を「妹」だと偽り、命拾いをした上に、その見返りに非常に多くの財産を手にするという恥ともいえる出来事が書かれています。そして、非常に多くの財産を持って追放されたアブラムに今度は甥のロトとのそれぞれの雇用人たちの諍いが起こり、別れて生きることを選択するのです。そしてアブラムは、ロトに好きな土地を選ばせ自分は逆の方へ行こう、と言うのです。
 私たちは私たちの計画や計算、予測をして物事を決断したりします。このロトの選択は人間的に見れば決して間違った選択ではなかったと思います。しかし結果的にこれがソドムとゴモラの滅亡につながる出来事となるのです。注目すべきは、ロトの選択とアブラムの選択の決定的な違いです。結果的にアブラムには「残り物には福があった」ということではありません。ロトは人間の思いから選び、アブラムは選んでいないが、しかし神様がアブラムを選んでいるということなのです。私たちも自分達の弱さ、罪、失敗、敗北の現実に目を注ぐのではなく、神様が選んでくださっている現実に目を留め、キリストの勝利の現実に「目を上げて」見る必要があるのです。
 私たちは、「目を上げて」神様の選びに対して常に確信をもって歩むことが出来るようにと祈り求めつつ今年一年も歩んでまいりましょう。そしてご一緒に神様の約束を信じ、感謝し、「目を上げて」神様に礼拝を捧げる一年と致しましょう。