ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年2月]を短くまとめてのせています。

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 『自分を捨て、自分の十字架を負い』
マルコの福音書 8章34−38節
2011年 2月27日(日)

 「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とイエス様が呼びかけた人は、特別な人に対してではなく、すべての人、つまり、私たち一人一人に言われていることです。しかし、「自分を捨て、自分の十字架を負う」ことは不可能なことと思われるかもしれません。
 後にイエス様が、十字架のことをもう一度弟子達に告げた時、ペテロは「わたしもあなたと一緒に死にます」といったのですが、その時イエス様は「3度、イエス様を知らないと言う」と言われました。つまり「あなたは十字架を負えないだろう」と言ったのです。イエス様もまた「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということがどんなに難しいかという事はよくご存知であったという事です。
 Tコリント10:13では「耐えることのできないような試練に会わせず、耐えられるように脱出の道も備えてくださる」といっていますが、これが「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということの意味なのです。大きくても小さくても、耐えられる試練だからその十字架から逃げず、しっかりと背負って信仰生活を続けなさいということなのです。
 乗り越えられる試練が与えられるのですが、そこには確かに苦しみ、もがき、痛み、悲しみなどがあるでしょう。しかし同時にその十字架の先に復活のイエス様がおられたように、私たちも、必ずそこから復活できる、イエス様の栄光の姿を見ることができる、そして私たちが永遠のいのちを得る、栄光の御国に入れられるということでもあるのです。どうぞ自分を捨て、主から与えられる十字架を負って、私たちは命を得る、そして栄光の御国に入れられる、そこに望みと希望をおいて、この信仰生活を、励ましあいながら、全うして参りましょう。
  『私たちの信仰の告白』
マルコの福音書 8章27−33節
2011年 2月20日(日)

 この箇所はペテロがイエス様のことを「あなたは、キリストです。」と信仰告白した大事な箇所です。
 アンデレがペテロに初めてイエス様を紹介したときにすでに「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」(ヨハネ1:41)と言っていますから弟子達はすでに「イエスはキリスト」と告白しています。それから相当の時間がたって、改めて「わたしをだれだと言いますか」とイエス様はあえて聞くのです。
イエス様は私たちにも信仰の告白を口に出し、言葉に出すことを求めておられるのです。ですから、それに答えて「あなたこそわたしの救い主です」とイエス様にいつも告白いたしましょう。
 さて後半ですが、イエス様はその告白に対し、これから自分は十字架につけられて殺され、三日後によみがえることを言うのです。そうするとペテロはそんな事があってはなりませんといさめ、イエス様にひどく叱られてしまうのです。ペテロは十分にイエス様の救い、十字架と復活を理解していませんでした。しかし私達もそうですが、イエス様は自分の救い主だと信じ、告白して、信仰生活をつづけているうちに益々わかっていくものなのではないでしょうか。
 今週のみ言葉は「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。ヘブル4:14」です。信仰の告白を堅く保つことは、分からなくてもとても大切なことなのです。理解が不十分であっても、「救い主はイエス様です」と告白し生きていくときに、救い主を段々はっきりと見ることができるように、神様が私たちを変えてくださるのです。神様に期待してご一緒に信仰生涯を歩んで参りましょう。
 『はっきり見えるように』
マルコの福音書 8章22−26節
2011年 2月13日(日)

 これまでの癒しの奇跡は、「すぐに癒された」とか「そのとき同時に癒された」とあり、いつも瞬間的なものでした。しかしここでは、瞬間的に癒されたのではなく、段階的に癒されたと言っていいでしょう。
 私たちの時代は「早いこと」に価値がおかれています。コンピューターネットワークはまさにそうですし、携帯電話はどこでも瞬時に相手と話しができ、メールは瞬時に全世界のどこにでも文字や写真を送ることができるのです。それは私達が待つことのできない、忍耐が難しい時代に生きているということなのかもしれません。
 またそれは私たちの信仰生活とも関係しています。祈ってもすぐに解決がないと、「神様は祈りに答えられない」と思ってしまうことはないでしょうか。それは「神の時」ではなく「早さ」ばかりを期待しているのかもしれません。
 それから、この目の見えない方が最初に「はっきりと見た」ものはなんだったのでしょうか。目の前のイエス様だったのではないでしょうか。目が見えるということ以上に、私達は何を見るかが大切です。イエス様を知らないということは心の目が閉じているということです。伝道するということは、その目の閉じた方々の目が開かれるように祈り続け、時にはそのように促すことです。私たちが証しするということは、「はっきり見えるように」イエス様を示してあげることです。目が見えるようになって何を見るかはとても大事なことなのです。
 私たち自身がイエス様をはっきり見つめながら、祈り続けながら、信仰を成長させていただきながら歩んでまいりましょう。またイエス様をはっきり見えるように、伝道し、証し続けてまいりましょう。

田原寿子(たばら としこ)宣教師感謝報告会
『福音を広めることにあずかる』
ピリピ人への手紙 1章5−6節
2011年 2月 6日(日)