ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年3月]を短くまとめてのせています。

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 『塩けを保ちなさい
マルコの福音書 9章38−50節
2011年 3月27日(日)

 マルコ福音書の9章は、変貌山に始まり、栄光の場面がありましたが、同時に、続く箇所では弟子達が現実の厳しさを突きつけられる箇所でもあります。弟子達が癒せない悪霊現象があったり、「一番偉いのはだれか」という議論をしていたりしたのです。
 そして弟子たちが「まだ気づかず」にいることが明らかになります。イエス様の名前を無断で使う人たちを止めさせたのです。さらに名誉挽回とばかりにイエス様に告げ口をして褒められようと思ったのかもしれません。偉くなりと思っているわけですから、自分たち以外の人たちに癒す力があり、活躍しているということは、自分の立場が危うくなることだとしか思えなかったのでしょう。他者を排除し、一番偉くなることを考えたことが、結局イエス様の名によって力ある働きが行なわれていることを喜べなくしたのです。
 イエス様は、弟子たちの中に、ねたみ、そして、人につまずきを与えてしまう姿があるのを見て、戒められ、永遠の命に生きることの幸いをお話になられ、その中で「塩けを保ちなさい」と言われたのです。
 塩は大切で、防腐と味付けという二つの働きがあります。この両方とも他のものと一緒にならなければ発揮されません。私達は、クリスチャンとして塩の役割が与えられているのです。地の塩として生きることをイエス様は教えておられます。それは、私たちが一人一人独自性をもちかけがえのない存在であり、いのちに入れられている存在であることを覚えるということです。周りの人々の素晴らしさが引き出されていくという役割を担っているということなのです。クリスチャンとして地の塩として、今週もしっかり「塩気を保って」歩んでまいりましょう。 
 『だれが一番偉いか
マルコの福音書 9章30−37節
2011年 3月20日(日)

 イエス様はカペナウムに向かうその途上で弟子達に二度目の受難と復活の予告をされました。しかし弟子達はこのときもイエス様の言うことがよく理解できませんでした。
そんな弟子達の関心事は、だれが一番偉いかという、この世の価値観についてでした。しかしこれが彼らの本心であり彼らの正直な姿でもありました。この箇所でもイエス様にたしなめられますが、実はこのようなことは、少し後(マルコ10:35-37)にも出てきます。弟子達は自分達が集まるとその事ばかり論じていたのかもしれません。後ろめたい議論だったからか、イエス様から聞かれると「黙ってしまった」というのです。
 イエス様は、そのような世的な価値基準をこわし、正すために、「人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」というのです。さらにイエス様は「幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる」、つまり謙遜になりなさい、というのです。
 私達は自分の努力とか決心で謙遜になれる事は到底できないことを知っています。私達は自分の弱さと罪を思い出しながら、その自分のために死んでくださったイエス様の名の故に、同じように弱い存在である幼子を受け入れる、そうする事がただ一つ私たちが謙遜になれる道なのではないででしょうか。
 だれが一番で、だれが偉いか、という思いになってしまうようなとき、相手を批判的に見てしまうとき、自分は間違っていないと思ってしまうとき、私たちは、このみ言葉を思い出し、自分の罪と弱さを思い出しながら弱い存在を受け入れ、主の目に喜ばれることを実践してまいりましょう。
 『信じます』
マルコの福音書 9章14−29節
2011年 3月13日(日)

 弟子たちが癒やすことができなかった事に始まります。この息子を癒してくれるように願う父親は、苦しむわが子を思い、また癒せなかった弟子達への期待が裏切られ絶望的な気持ちになっていたことでしょう。
 「もし、できるなら」(22)と願うと、イエス様は「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(23)と答えます。するとすぐに、父親は叫んで「信じます。不信仰な私をお助けください。」(24) と言いました。
 この父親の言葉は、矛盾しています。「信じます」ということは「不信仰」ではないはずです。私たちの歩みはいつも理路整然としているわけではありません。
弟子達と律法学者達との議論はそうだったかもしれません。しかし父親はそういった論理を吹っ飛ばして、イエス様に希望と絶望、信仰と不信仰が入り交じったそのままで叫び、イエス様に拠り頼んだのです。
 私たちも強い信仰を持ちたいと願いますが、信じられないときがあります。問題は私達の信じる強さではなく、神様につながっているかどうか、つながり続けているかどうかです。私たちが弱い者であっても、確かな神様につながっているならば、私たちは確かなのです。この神様の行為に拠り頼む、ということがまさに祈り(29)なのです。自分の無力、不信仰を知り、神様に頼る、ということが祈りであり、信仰なのです。
 私たちも大変な問題に直面し、無力さを知らされています。イエス様は私たちにも「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と呼びかけておられます。今日タイトルに上げましたが、「信じます」と答えたいと思います。そして「不信仰な私をお助けください。」と拠り頼んで、厳しい日本の状況の中、歩んでまいりましょう。
 『すばらしいこと』
マルコの福音書 9章1−13節
2011年 3月6日(日)

 今日の聖書箇所は「変貌山」といわれる箇所です。イエス様の三人の弟子たちにとっては、素晴らしい経験であり、また戸惑いと恐れを抱かせる出来事でした。5、6節に弟子たちの反応が書かれています。
 ペテロはとっさに、そのモーセ時代の幕屋を思い出して神様とあった特別の場所にしたいと考えたのかもしれません。あるいは旧約聖書の偉大な人物の一人と見てしまったのかもしれません。しかし、イエス様は、偉大な人物の一人に過ぎない方ではなく、神の子であり、救い主です。そのことを示すためなのか、7節の言葉が書かれています。そしてその7節では「イエス様の言うことを聞きなさい」と言われたのです。
 つまり、幕屋を作って特別な神の啓示を頂いて歩むのではなく共に歩んでくださるこのイエス様の言葉に聞き従いなさい、というのです。
  「これは私の愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と語られているように、キリストの言葉に耳を傾け、聖書の約束の言葉を本気で受け取ること、それが、神様の願っておられることなのです。
 ペテロは「すばらしいことです」といって幕屋を三つというのはトンチンカンなことでした。けれども、そのおかげで、いつも私たちとともにいてくださるイエス様に聞き従うことが大切だと示されたのです。
 栄光の姿を持ち、同時に最後までその姿にこだわらず最も低くなった十字架のイエス様が、どこか特別の場所にいるのではなく、ともにいて、その言葉を聞くようにといつも導き続けてくださる、このことこそが本当に「すばらしいこと」なのです。イエス様に信頼して仰ぎ見て、祈り、そしてイエス様の語りかけにしっかりと耳を傾け、従って歩んでまいりましょう。