ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年4月]を短くまとめてのせています。

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 『復活の証人』(イースター)
ルカの福音書 24章36−49節
2011年 4月24日(日)

 イースターおめでとうございます。
 このイエス様の復活が多くの人々の人生を変えました。弟子たちなどは元々勇敢ではありませんでした。私たち同様、死を恐れ、いろいろなものを恐れる人たちでした。ところが、イエス様の復活、そして聖霊降臨を境に、彼らは死を恐れない者に変えられていったのです。
 イエス様の復活というこの事実は、その約束を信じるならば、私たちを力強く歩む者へと変えるのです。
 その約束とはこのイエス様によって、信じるすべての人の罪は赦されるのということです。そして私たちはいつか肉体が滅びたとしても、その後、永遠を主とともに過ごすということです。さらに、この救いは、全世界のすべての人に、信じるすべての人に与えられます。
48-49節にはイエス様が私達に与えた使命が書かれています。一つは「イエス様の復活の証人となる」という使命です。私達は罪の赦しのための悔い改めが必要であること、そしてイエス様を信じること、これが神様が私たちに託された証言の内容です。
 また証人としてイエス様を証しして行くために、どうしても「神様の助け」が必要です。これは既に聖霊が降ったこと(使徒2章)で成就しています。ですからこの聖霊様に信頼して証人として歩むのです。
 イエス様の復活はこんなにすばらしい祝福、約束を私たちに与えてくれたのです。特に、イースターを覚えるこの日、自らの歩みを吟味して、使命を果たす者として生きているのかどうかを考えましょう。そして一人ひとりがその使命に真剣に向き合って、ただ自分が感謝するだけでなく、復活の証人として歩んでまいりましょう。
  『私たちの咎のため』
イザヤ書 53章1−6節
2011年 4月17日(日)

 イエス様の受難と十字架が預言されていた箇所です。まさにこの様子が十字架の前に繰り広げられました。
 イエス様は弟子たちに過越しの食事の用意をさせたとき、ユダは銀貨30枚をもらって裏切る用意をしていました。イエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われましたが、弟子たちは、「誰が一番偉いか」と議論をしていました。イエス様は弟子たちにパンとぶどう酒をもって罪の贖いを明らかに示されましたが、弟子たちは自分たちが大臣になる時を夢見ていました。ペテロは牢でも死でも覚悟は出来ていると豪語しましたが、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように」とペテロのために祈りました。イエス様がはゲッセマネの園で祈られましたが、共に祈っていなさいと言われた弟子たちは、眠っていました。イエス様は捕らえられたとき、弟子たちは見捨てて逃げて行きましたがイエス様は黙って十字架へと歩んで行かれました。ペテロは3度イエス様を知らないと言いましたが、イエス様はいつくしみをもってペテロを見つめました。兵士たちは嘲り、棒で叩き、その顔につばきしましたが、イエス様はののしり返さず、正しく裁かれる方に全てを委ねられました。イエス様は十字架に釘付けられ上げられましたが、兵士たちはその着物を分けるために十字架の下でくじを引いていました。群衆や指導者たちは十字架につけられたイエス様をあざ笑いましたがイエス様は「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。
 私達はイエス様のために何をしていますか。イエス様は私に何をしてくださったのかを改めて思い巡らし、感謝と喜びを持ってイエス様に従い、イエス様の深い大きな愛に応答する者とさせていただきましょう。
  『子どものように』
マルコの福音書 10章13−16節
2011年 4月10日(日)

 イエス様の元に、触って祝福していただくために子供たちが連れてこられました。少し前に「幼子たちのひとりを受け入れるならわたしを受け入れるのです」とイエス様が話されたばかりなのに、弟子たちは、子供たちをしかりつけ、追い返そうとしたのです。
イエス様はそれをご覧になると、憤りをおぼえて、子どもたちをご自分のもとに来させ「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」と教えられたのです。
 「子どものように」とはありのままの自分を受け入れてくださる方のもとにいきその方と歩むということです。神の国は、強い者、優れている人たちのものではなく、幼子のような小さな弱いひとりひとりのために備えられているのです。私たちも「子どものように」歩みましょう。
 それでは「子どものように」とはどういうことでしょうか。パウロは「物の考え方において子どもであってはなりません」(Tコリント14:20)とか「子どもではないので、だまされてはならない」(エペソ4:14-15)といいます。子どもっぽさや幼児性が厳しく批判されている箇所ですから、「子どものように」なるということに注意が必要です。
 この箇所で「子どものように」と言われたのは、弟子たちが子ども達を排除しようとする、弟子達の思い上がりをイエス様は何よりもたしなめたのです。すなわちイエス様が「子どものように」なれと言われたのは弟子達の思い上がり、高ぶり、傲慢を打ち砕くために、「子どものように」なれと言われたのです。私たちは、思いあがって、自分が正しいなどといつも肩肘張って生きるのではなく「子どものように」ただ神様を信頼する信仰で歩んでまいりましょう。
 『神が結び合わせたもの』
マルコの福音書 10章1−12節
2011年 4月3日(日)

 パリサイ人たちがいつものように、イエス様を陥れようと質問をしてきました。
 今回は、「離婚」についてでした。
 そういうパリサイ人の律法に対する態度を批判して、イエス様は本来の結婚のあり方について天地創造の始めから説いて、創世記の言葉を引用してお話になりました。イエス様はそれが律法的に許されかどうかを議論しようとはしないで、神様の結婚の意味はなんなのか、みこころはどこにあるかに目を留めるようにというのです。そして結婚は、神が結び合わせたものだから人が勝手に離してはならないというのです。
 それでは「神が結び合わせたもの」というのは、どういう事なのでしょうか。自分達で結婚を決断するという事、自分が責任を持つということと神が結び合わせたものとは相反する考え方なのでしょうか。自分達の決断に責任を持つということは大事です。しかしその決断は弱い人間のものでもありますから、決断は結婚するという決断であると同時に二人は「神が結び合わせたもの」であると信じる決断をするということなのです。そして後者のほうが大事なのです。
 聖書には「誓ってはならない」とありますが、神様に誓うのが結婚式です。誓ってはならないのにあえて誓うというのも二人は「神が結び合わせたもの」であると信じる決断をするからできるのです。その決断の背後に神の導きがあったのだと確信を持っていくようになるのです。
 そして結婚という場面だけではなく、イエス様も聖書の言葉に立ち返って神様のみ旨を教えられたように、私たちもいつも聖書の言葉に立ち返り、神様のみ旨はなにか、どうなることを求めておられるのかということを大切にしてまいりましょう。