ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年5月]を短くまとめてのせています。

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 『ホサナ!』
マルコの福音書 11章1−11節
2011年 5月29日(日)

 この箇所の前半では、ろばの子のエピソードが記されています。「王」である方が馬ではなくろばの子に乗って、入城するというのは、不思議な気がします。ろばの子は、出エジプト記13章を見ると「ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。」とあり、神様にささげるものとしてふさわしくないから、羊をもって贖うというのです。神様にささげるのにふさわしくない「ろばの子」とは私達のことです。しかしイエス様は愛し用いてくださるのです。また、ろばの子の代わりに羊をもって贖ったとあります。子羊はイエス様のことです。私たちの罪の身代わりとなって、ご自身の身をもって贖ってくださったイエス様の十字架の救いをもここに示されているのです。
 7節からは「エルサレム入城」です。人々は口々に「ホサナ」と叫びました。彼らはローマから解放してくれる政治的な救い主と期待して、喜んでイエス様を迎え入れたのでした。しかし、数日後には、「あの男を十字架に付けろ!」という叫びに変わりったのです。
 私たちはどうでしょうか。礼拝では神様を賛美していますが、日々の生活においてはどうでしょうか。神様を賛美するこの唇が人を呪う言葉になってはいないでしょうか。神様を本当には賛美していないことになるかもしれません。しかしイエス様は賛美と呪いが同時に出てしまうような私たちのためにこそ、十字架にかかってくださったのです。
 人々は「ホサナ!」と迎え、すぐに「十字架につけろ」と叫びました。私たちは、どう告白するのでしょう。イエス様を信じ受け入れた人の心にイエス様はすでに来てくださっています。このイエス様を、「ホサナ!」とほめたたえる者でありたいものです。
  『信仰があなたを』
マルコの福音書 10章46−52節
2011年 5月22日(日)

 ガリラヤ伝道の後、エルサレムに向かわれるイエス様がエリコという町でバルテマイという一人の盲人を癒されます。
私達は、目の前にある問題の解決や、欲しいものをあげ連ねて願っていくことは難しいことではないかもしれませんが、自分にとって何が本当に必要なのかと考えると実はあまりよく分かっていないのかもしれません。もしかしたら切なる「こうしてほしい」という願いを誰かにぶつけることもなく、神様に祈ることもなくなってしまっている、ということがあるかもしれません。
 バルテマイは、神様に願いをぶつけてくる人でした。彼は自分にとって必要な物が何か、自分に何が足りないのか、そのことをよく分かっていて、またそれを口にすることが出来たのです。彼の心の真中にある願いは「目が見えるようになりたい」ということでした。
イエス様はこのことを踏まえて、「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。バルテマイがイエス様に対してダビデの子だと言ったこと、何度も叫び続けたこと、飛び上がってやってきたことは重要なポイントですが、何よりも、自分の真中に神様が必要であること、そのことを認めたこと、それをイエス様は信仰だ、あなたの信仰だと言ったのではないでしょうか。
 バルテマイはすぐに見えるようになり、十字架へ向かうイエス様に従っていきました。私達も救い主であるイエス様に希望を持って、熱心に、私を憐れんでください、私を助けてくださいと、私たちも心にある本当に必要なことを、イエス様に叫び続けて、イエス様に従って、信仰の人生を歩んでまいりましょう。その信仰が救いへと導くのですから。
  『自分の弱さを受け入れる』
コリント人への手紙第二 12章1−10節
2011年 5月15日(日)

 今週は、京浜キリスト教会 尾島チャペル 
吉井丈雄牧師の交換講壇でした。


 
 『仕える者に、しもべに、』
マルコの福音書 10章32−45節
2011年 5月 8日(日)

 イエス様は、そのエルサレムに上るために進んで行かれます。イエス様のもとには、弟子達や助けてもらおうとする人たちだけでなく、敵意を持ったパリサイ人や律法学者という人たちもいました。そして今、イエス様は先頭に立ってそのエルサレムに向かっていこうとなさっているのです。エルサレムといえば、その敵意を持つ者達の総本山、本丸です。弟子たちは、そんなイエス様に驚き、恐れて当然なのでしょう。
 そんな中イエス様は、ご自分に起ころうとしている苦難について、とてもはっきりと、当然彼らにも、そして私たちにも、だれにでも分かる言葉で弟子たちに予告されたのです。これが三回目です。ところが弟子たちの反応はありません。それどころか、イエス様がこの苦難の予告をされた後、ヤコブとヨハネは兄弟そろってイエス様のもとにやって来て王座の右と左に、すなわち自分達を高いくらいにつけてくださいというのです。
 そこで、イエス様は「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者に、みなのしもべになりなさい。」ときっぱりと言われたのです。これは、私たちの日常生活の中でも、実践していくべき大切なことなのです。私たちの向上心は悪いものではありません。しかし、そこに神様という絶対的な存在と、その方の思いに目を留めようとすることを忘れてしまいますと、私達は思いあがり、底なしの貪欲が生まれ、神のようになりたいという傲慢な思いを持ってしまうことになります。
 いつも神様を中心に据え、イエス様の生き方を心に覚えながらその模範を思い出し実践して、「謙遜」さを大事にし、仕える生き方、しもべとして生きる事を、実践してまいりましょう。
 『何をしたら』
マルコの福音書 10章17−31節
2011年 5月 1日(日)

 いわゆる「富める青年」の話です。ここでは救われるためには、戒めを守り、善行を重ね、そして最後には自分の持っている財産まで捨てなくてはならないと言われているようです。それではイエス様の恵みを信じる信仰によって救われる、という福音と違ってしまいます。この人は「永遠のいのちを受けるためには、何をしたら」と尋ねました。「何をしたら」救われるかという生き方だったのです。イエス様はその問いに対して、あの十戒の後半の「戒めを守りなさい」と言われたのでしょう。
 イエス様はこの青年が「尊い先生」と呼びかけたのに対して、「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」と、不思議な事を言います。これは「どんなよい事をしたら」と尋ねたのに対して、イエス様は「どんなよい事をしたら」ではなく「だれがよい方かを尋ねるべきで、よいかたはただ神様おひとりで、私たちはその方に信頼する事が大事である」と、言おうとされたのでしょう。この「富める青年」の箇所の中で、一番大事な箇所は「人にはできないが神にはできる」という言葉ではないでしょうか。神様に出来ない事はないから、このかたくなな自分をも救ってくださらない筈はないと信じ、ただ神様に頼ることが大切です。自分のもっているものをすべて捨てられなくても、捨てられない自分をそのまま神様に差し出して、この自分をまるごと赦し、救ってくださいと、神様に信頼する時、私たちもまた神の国に入れるという事です。
 「何をしたら」というタイトルですが、私たちも、自分の財産をすべて捨てきれない、自分を捨てきれない事に、顔を曇らせ、悲しみつつも、なおイエス様に助けを求め続け、イエス様にしがみついていく信仰者として歩んでまいりましょう。