ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年6月]を短くまとめてのせています。

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 オープンチャーチ『人生の土台』
マタイの福音書 7章24−27節
2011年 6月 26日(日)

 現代の日本に住む私達は物質的には豊かな恵まれた社会に生きているといわれます。しかし、精神的に、あるいは心の状態が、満足や感謝にあふれて生活を送れているでしょうか。特にあの3月11日の東日本大震災以降、物質的に恵まれている状態ですらも、実はすぐに崩れてしまいやすいもろい状態なのかもしれないと思わされます。
そのような時代、そのような社会の中で「人生の土台」とすべきものは何でしょうか。イエス様は、私たちの人生を家を建てることに喩えて話されます。二人の人と二種類の建物が出てきます。
 一人は、砂の上に家を建てました。それは普段は大丈夫でも、嵐が来たら、洪水が来たら大変です。もう一人は、岩の上に家を建てたのです。堅い岩の上にしっかりした基礎工事をすればこれほど安心なことはありません。
 土台の部分は、人目につきません。目に見えないから、適当でいいやと思う人もあるかもしれません。砂の上でも岩の上でも見た目には変わらないのです。しかし実は、どのような土台の上に家を建てるかは非常に大切なことなのです。
 これと同じよう、いやそれ以上に、どのような土台の上に人生設計をするかということはとても重要なことです。土台によって、人生が決まるのです。聖書が、2000年にわたってベストセラーなのが人生の確かな土台を提供しているからです。今、自分の人生の土台を点検して、人生の問題や課題にも揺るがない生涯を送ることが大切です。この聖書の教える人生を元にして、教会でご一緒に学びともに歩んで行こうではありませんか。
 『何の権威によって』
マルコの福音書 11章27−33節
2011年 6月 19日(日)

 直前のところで、イエス様は商売人、両替人たちお「強盗」と言い、台をひっくり返し、追い出されました。その神殿の権力者たち、すなわち、祭司長、律法学者、長老たちからすれば、長い間守ってきた伝統を踏みにじられ、自分達が高い地位に居続けるためのシステムにNOを突きつけられたのです。
 残念ながら、どんなにすばらしいみわざを直接見たとしても、どんなに言っていることが正しいとわかっていても、イエス様を信頼して生きようとしなければ、イエス様が天から来られた方であることはわかりません。当時の祭司長、律法学者、長老、パリサイ人、サドカイ人など、自分が権威者だと思っている人々、現代の身近な言い方をすれば「自分が正しいと思っている人々」は、イエス様の語る言葉を聞いても、奇跡も見ても、バプテスマのヨハネの言っていることの正しさを知っても信じようとも受け入れようともしなかったのです。だから、わからなかったのです。
 私達は、イエス様は、天から来られ、権威をもって一人一人の人生を導いてくださるまことの権威者なのだと信じて歩んでいく必要があるのです。神様のみ心の中に歩んでいく人生、イエス様の言葉を受け入れ信じることを決断して歩んでまいりましょう。
 「何の権威によって」というタイトルをつけましたが、私たちはこの天からの権威、神様からの権威、イエス様の権威によって歩んでまいりましょう。十字架につけられ、復活されたイエス様ご自身の語る権威の約束の言葉を受け入れ、恵みと平安の中に安息して豊かな人生を歩んでまいりましょう。
 『祈りの家』
マルコの福音書 11章12−25節
2011年 6月 5日(日)

 ベタニヤからエルサレムに向かう道中、実のなる季節ではなく葉の茂ったいちじくの木がありました。イエス様が実のないそのいちじくの木に向かって呪うと、翌朝、根元から枯れているというのです。
 このいちじくエピソードの間に挟まれて「宮きよめ」と言われる出来事があるのですが深く関係しています。イエス様は、信仰の中心であり「祈りの家」であるはずに神殿をご覧になったときに、「強盗の巣にした」と言われたのです。葉は豊かに茂っているが肝心の実がないエルサレムの姿を、いちじくのようだというのです。信仰の形骸化、形式化した姿がまるで強盗の巣のようになっている状態だったのです。
 イエス様は「祈りの家」が回復されることを望まれたのです。しかしエルサレムの神殿は終わりを告げました。そして、私達のうちに聖霊なる神様が宿るという新しい神殿の時代(Tコリント3:16-17)が来ました。
 イエス様は私たち自身が「祈りの家」となることを望んでおられます。私たちが形骸化した信仰に歩むなら、いちじくがかれたように、神殿が崩壊したように、滅びが待ち受けているのかもしれません。
 イエス様は、私たちに「祈りの家」となること、すなわち、祈る者になることを求められています。献げ物が良い物かどうかとか、礼拝に出席したかどうかとか、今日はもう祈ったからとかではありません。私たち自身を祈りの家にしてくださったのですから、その神様の思いを大切に、神様に感謝し、賛美し、へりくだり、悔い改め、神を求め、神に従い、公義を愛し、誠実を行い、謙遜に神とともに歩む人々の姿勢が回復されること、すなわち自分が「祈りの家」になること、「祈りの人」になり主に喜ばれる歩みしていこうではありませんか。