ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年7月]を短くまとめてのせています。

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 『一番大切な命令〜隣人を愛せよ〜』
マルコの福音書 12章28−34節
2011年 7月31日(日)

 ある律法学者がやってきてイエス様に「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」と尋ねました。マタイの福音書では、「同じようにたいせつです」(マタイ22:39)とありますので「一番大切な命令」として〜隣人を愛せよ〜と題をつけました。この二つに優劣はあるのですが、イエス様は、一番大切な教えとしてこの二つを挙げたのではないでしょうか。イエス様が教えられた「隣人を愛する」ことを掘り下げます。聖書が教える「隣人を愛する」事を具体的に見てまいりましょう。
 隣人を愛するとは「赦す」ことです。エペソ書では「互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)と教えています。「人を裁かない」ということも大切です。「つまずきとならない」ことも大切です。ローマ書に「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。」(ローマ14:15)とあります。こうしたら相手が躓くかもしれない、ということを避けてあげられることがあるなら喜んで避けましょう。また隣人を愛するとは「害を与えない。」と聖書は言います。「愛は隣人に対して害を与えません。」(ローマ13:10)と聖書は教えています。そして、隣人を愛するとは「犠牲はらう」ということです。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)とイエス様は教えられました。
 これらの聖書が教える隣人を愛することの具体的なことがらを、神様の助けによって実行していくことが大切です。神様に信頼して決断し、神様を愛し隣人を愛しなさいとの命令に応答して実行してまいりましょう。
 『一番大切な命令〜主を愛せよ〜』
マルコの福音書 12章28−34節
2011年 7月24日(日)

 律法学者がイエス様のところに来ました。この律法学者は、後からでイエス様に「あなたは神の国から遠くない。」(34節)ともいわれていますから、イエス様が本物かもしれないから真理を知ろうとして調べにきたようです。そして「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」と尋ねました。
 イエス様は29-31節のみことばで答えられました。イエス様は今日も、そして私達を含む全ての人に、「主を愛しなさい」と、一番大切なこととして教えています。どのようにして愛するのでしょう。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」とあります。
 心とは、行動をコントロールするところであり、いわば私達の意志です。自らの強い意志を持って愛するということです。 また思いとは感情が含まれます。通常、私たちが誰かを愛するというのはこの部分が多いのかもしれません。私達が自分の周りの人たちを愛する思い以上の強い思いで神様を愛するのです。知性とは、論理的にも、理性もの面でも愛するということです。あるいは相手を理解をしようとすること、神様に知られ、その神様をもっと深く知ろうとすることは愛することなのです。力とは、肉体的にも、物理的にも、あるいは財力や、人脈などの社会的な力、私達が持っているすべてで神様を愛するということです。
「尽くして」とはすべてをもって、という意味です。すべてを神にささげることが全面的な愛です。「愛せよ」とは、神様が私を愛してくださったその愛で愛しなさい、というのです。
 このみことばに従い、熱心に神様を愛し、神様に仕え、神様に信頼し、神様を愛することを大胆に実践していこうではありませんか。
『生きている者の神』
マルコの福音書 12章18−27節
2011年 7月17日(日)

 イエス様を罠にかけ問題発言をさせて、イエス様の働きを止め、あわよくば殺してしまおうとする者たちが次々やってきます。この箇所は、「復活」を信じないサドカイ人がやってきて難問(20-23節)をしかけてきたのです。復活は矛盾だらけの考え方で論理的にも間違っていて、起こると大変なことになる、とでも言いたかったのでしょう。
しかしイエス様は「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」(24節)と言います。
 私たちの知識というのは、ごく限られたものでしかありません。しかしサドカイ人のように、それを認めず自分の小さな理性の中でのみ神様を理解しようとし神様を批判、自分の理性が絶対であるかのように思い、自分に理解できないことは「ありえない」と考えるのです。
自分の理性だけで考えると、永遠の世界を十分に理解することができません。理性や知性は大切ですが、知識には限界があります。加えて愛と真実な神様を信頼し生きることが大切です。
 そしてイエス様は出エジプト3:6の言葉を引用し、27節で「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」と言います。「神は死んだ者の神ではない」とは「死んだ者たちにとっては神様ではない」という意味ではなく、「すべての人を生かすことのできる神様である」という意味です。神様は生きている者を導き、死人をよみがえらせることのできる力を持ったいのちに溢れたお方であるというのです。聖書は復活をはっきり教えています。その復活はいのちに溢れた方と、永遠の命の中に歩むことを意味しています。この方にあって永遠に生きる者であることを心に留めて今週も復活の希望の中に歩みましょう。
 『神のものは神に』
マルコの福音書 12章13−17節
2011年 7月10日(日)

 またしてもイエス様のことを「わなに陥れようとして」近づいてくる人たちがいました。実は、パリサイ人とヘロデ党の人たちは、仲が悪く、思想もまったく違っていましたが、祭司長や律法学者や長老たちの回し者として結託してやってきたのです。ゴマすりのような言葉で始め、そしてついに「カイザルに税金を納めるべきか否か」と罠となる質問をしかけてきました。
 「納めるべき」と答えても「納めるべきではない」と答えても、イエス様は思うツボとなり、わなにかけられ、窮地に立たされるわけです。しかしイエス様は擬装を見抜き、カイザル(皇帝)の肖像を示して、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と答えたのです。
 エペソ人への手紙1:13に「あなたがたも、・・・約束の聖霊をもって証印を押されました。」とあります。私たちの存在そのものに神様の銘が刻まれ、キリストによって聖霊の証印が押されているのです。私たちは、この社会の一員であり責任を果たさなくてはなりませんが、それ以上に神様に属し神様に責任を果たすべき存在なのです。
 この世界を創造され、支配しておられる神様のものとされていることに誇りを持って、神様に感謝し、神様にゆだね、神様のために生きてまいりましょう。神様に返し神様のために生きるとは、自分のものが磨り減り、劣化して、ダメになっていくのではなく、むしろ豊かにされ、新たにされ、増し加わって、喜びと平安に満たされていく人生なのです。
時間も、才能も、わたしたが得たすべてのもの、人間関係や人脈、すべてのよいもの、賛美、祈り、そして感謝をささげる生き方、「神のものは神に」という生き方を基本にして歩んでまいりましょう。
 『見捨てた石』
マルコの福音書 12章1−12節
2011年 7月 3日(日)

 直前の箇所で祭司長、律法学者、長老たちが「何の権威でこんなことをするのか」と詰め寄りましたがイエス様はこの箇所で、その問いに対する答えを、ぶどう園と農夫たちのたとえ話で語っておられます。
 ここに出てくるぶどう園は、イスラエルの民が神様から与えられたものを表していますが、これを読む私達には、神様から与えられた人生を表しています。神様は、まず、私たちが必要なものをすべて整えてくださりまた信頼してすべてを任せてくださったのです。
 しかし、神様が与えてくださり任されている、ということを次第に忘れ、自分のものだと思うようになっていったのです。それがこの農夫たちの態度にあらわれています。私たちも、この愚かな農夫のように考えていることはないかとチェックする必要があるでしょう。私たちの人生に必要なものはすべて、神様が備えてくださっているのです。
 言うまでもなく主人とは、神様です。ここにでてくる主人は、何回もしもべたちを送り続ける忍耐深いお方であると言って良いでしょう。そして愛する息子とはイエス様のことです。忍耐強く待ってくださった神様である主人は最愛の息子を送りますが、農夫達はつかまえて殺し外に投げ捨ててしまったのです。まさにイエス様の十字架です。
 イエス様は、このたとえを語り終え、詩篇118篇のみ言葉を引用なさいました。私たちが見捨て、十字架につけられ、復活された「見捨てた石」であるイエス様こそ、信じ受け入れる者の人生の礎の石となってくださいます。イエス様を礎の石として信頼し、自分の人生が、神様によって備えられ、神様から任された人生であることをいつも心にとめ、神様にイエス様の十字架を見上げ、神様に感謝して歩んでまいりましょう。