ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年8月]を短くまとめてのせています。

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  『だから気をつけて』
マルコの福音書 13章14−27節
2011年 8月28日(日)

 終末の預言を理解しようとする場合は、その預言の内容が二重にも三重にも重なり合っていることを知ることが大切です。イエス様は、世の終わりについての預言を語っておられますが、ただ未来に起こることを語るのではなく、この預言を通して、私たちがどのように生きて行くべきかという生活のあり方を示されています。
 世の終わりには、『荒らす憎むべきもの』が聖なる場所に立つと書かれていますが、これは、ダニエル書からの引用です。紀元前167年シリアのセレウコス朝のアンティオコス・エピファネス王によって占拠されそのことが実現してしまいました。また紀元70年にローマ軍によっても同じようなことが起こりました。イエス様はそのことが起こったら「山に逃げなさい」というのです。終末に生きる私たちの姿勢として大切なのは、目に見える立派な神殿をよりどころとして生きるのではなく、キリストの言葉を常によりどころとして生きて行くことなのではないでしょうか。
 偽預言者、偽キリストの出現も記されています。そしてイエス様は、「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われました。現代の私たちこそ、これまでにないような多くの膨大な情報の渦の中にいますが、多くの様々な情報に対して、それが本当に正しいのかどうか、よく吟味し、気をつけなければならなりません。その基準は何かといえば聖書のみことばです。本物と偽物を見分けるためには、いつも本物に触れていることが大切なのです。
 私たちは終末の時代にあって、落ち着いた生活をし、惑わされることなく、聖書のみことば、イエス様の言葉に従って歩んで参りましょう。
  『産みの苦しみの初め』
マルコの福音書 13章1−13節
2011年 8月21日(日)

 ヘロデ大王が莫大な財を投じて再建された神殿は豪華なもので、弟子達も驚きはしゃぎ、感激していましたが、イエス様はまるで冷水を浴びせるように「この神殿はいつか壊されるものだ」とおっしゃいました。そして確かに、紀元七十年にローマ軍によってこの神殿は壊されてしまいました。そしてそれ以上に、「三日で神殿を建てる」とおっしゃったイエス様が復活によって私達を聖霊の住んでくださる、本当の神殿としてくださったことを覚えたいと思います。
 さて、オリーブ山に到着して弟子たちの何人かが「世の終わり」について質問するとイエス様は、どのような前兆があるかということをお話になりました。七つほどの前兆がについて書かれています。
 これらは、今起こりつつあるともいえますが、イエス様が弟子たちに告げられたさまざまな前兆は、いつの時代にも見られることなのです。イエス様は人生には大きな喜びもあるけれど、それ以上に苦しみを経験することがあるのだと言われるのです。しかし、痛みや苦しみというものは、その先に希望があると、耐えていくことができます。
 今日のタイトルを「産みの苦しみの初め」としました。この言葉を聞いて、苦しみがまだまだ続くのだろうかと思い、つらくなる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ただの苦しみではなく「産みの苦しみ」です。喜びと希望に満ちた永遠のいのちにいたる苦しみです。またイエス様は「人に惑わされないように気をつけなさい。」と教えられました。そして「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」と確かな希望と約束を示されています。私たちは、永遠の希望を持って生かされていることを確信しつつ歩んでまいりましょう。
 『主は心を見る』
マルコの福音書 12章38−44節
2011年 8月14日(日)

 イエス様は律法学者たちを非難なさいました。長い衣は高貴の象徴で自分たちが優れていることを見せびらかせようとし、挨拶されるのが好きだったのは、尊敬を得たいと思っていたからでした。会堂、宴会の上席好きなのは注目を浴び、名声を受けたいとする願望であり、やもめの家を食いつぶすとは地位を利用して利得をむさぼっていたことです。長い祈りをするのは見栄を飾るため、霊的だと思われたいからでした。
 並行箇所のマタイの23章では更に詳しく「経札の幅を広くする」とか「衣のふさを長くする」「先生とか父と呼ばれたい」ということが書かれていましたが、だからイエス様はそのことを何度も「忌まわしいものだ」と非難なさったのです。ただ、マタイ23:37の「ああ、エルサレム、エルサレム」という箇所を読むと、イエス様はこんな律法学者たちでさえも、愛をもって、忍耐をもって待ち続けていらっしゃることもわかります。私達も律法学者のような所がありますから慰めです。
 41節からよくご存じの一人のやもめの話が出てきます。持っているもの全てを投げ入れたと、イエス様は賞賛されました。神様の関心は私たちの目に見える行動ではなく、私たちがどんな思いをもってその行為をなしているかということです。決して表面的な信仰生活を求めてはおられません。ですから人に知られなくてもいいですし、人の信仰を知らなくても良いのです。この心とは「神様にゆだねる心」です。私達も神様とともにこの愛するひとりの貧しいやもめの心に目を留めましょう。神様に愛され喜ばれる心が、私たちの心を支配することを願います。私たちも同じように、そんな心をいつも神様に向け、神様により頼み、神様に感謝をあらわしてまいりましょう。
『ダビデの子』
マルコの福音書 12章35−37節
2011年 8月 7日(日)

 イスラエルの中ではメシヤ=キリストが現れる時には、「ダビデの子」つまり、ダビデの血筋を引く者として登場するという期待がありました。しかし、ここでイエス様は最後に自分がいよいよ十字架の道を歩もうとする時、そのダビデの子としてのメシヤ像を否定するのです。
 救い主キリスト、メシヤが、ダビデの家系なのかといえば、ダビデはイスラエルの国の中で、人々が一番尊敬したイスラエルの王だからででしょう。しかし旧約聖書に描かれていますダビデは、理想的な王というよりも、人間的な弱さをもった、一人の罪人として描かれているのです。
 バテシェバの一件だけでなく、聖書は何故こんな事まで詳しく記すのかと思う位に、その他たくさんのダビデの人間の姿を描くのです。
ダビデが神に愛されていたのは、ひとりの罪人として神様の前に立ち、そして罪を悔い改めるところにあるのです。それがイスラエルの理想的な王の姿として聖書が描こうとするのならば、イエス様はさらにすべての人の罪をご自分が身代わりに一身に担い、神様の裁きを受けて、ダビデよりももっともっとへりくだって、謙遜になって十字架で死んでいこうとするメシヤなのです。
 私たちの信仰は、この十字架のイエス様を信じ、従いこのお方のようになっていきたいと願う信仰です。すべてに解決が与えられ、大成功し、病気も治り、家内安全、商売繁盛、力も強く、連戦連勝の人生が、聖書が約束しているものではありません。へりくだりの中に恵みが、悔い改めの中に赦しが、敗北の中に本当の勝利が、迫害の中に天の御国への希望が、死の中に復活と永遠のいのちの希望があると約束されていることを覚え、そのような恵みのかなを歩ませていただきましょう。