ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年9月]を短くまとめてのせています。

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 『裏切り』
マルコの福音書 14章10−21節
2011年 9月25日(日)

 イエス様を裏切ったイスカリオテのユダの箇所です。
銀30枚は、何百万円という額でもなく、わずかなお金です。しかし、人はわずかなことで大それたことをしてしまう弱さを持っているのです。これは、決してイスカリオテのユダだけの問題ではなく私たちの問題でもあります。わずかな欲が積み重なり、それがだんだんエスカレートして一生を破壊するだけでなく、永遠のいのちすら失うことがあるのです。
 また弟子たちの関心事は、「誰がこの中で一番偉いのか」ということでしたが、イエス様は、十二弟子の中でも特に、ペテロとヤコブとヨハネの三人だけを選んで連れて行くことがよくありました。イスカリオテつまりユダヤ地方出身という優越感を持っていたユダは、おそらく嫉妬し、失念し、自己中心、そして傲慢になったのではないでしょうか。嫉妬や自己中心、傲慢は大きな落とし穴になるでしょう。
 さらにユダがイエス様に対して失望していたといわれています。ローマの圧政から救い出し、ユダヤ人の国を打ち立てる救い主としての役割を期待していたのですが、イエス様は「人の子は、殺され、三日の後によみがえる」などと話していたのです。私達も自分の思い通りにならないと勝手に文句を言い、勝手に失望していくのです。
 聖書は、ユダについて、「悪魔が入った」と表現しています。欲、貪り、嫉妬、自己中心、傲慢、自分勝手な思い込みによる失望、それらはわずかであっても、悪魔は心の隙を悪魔はねらっていたということで、私たちも大いに関係する事なのです。私たちは、失敗しても悔い改め、互いに注意し、支え合いながら、この信仰生活を全うしてまいりましょう。私達の弱さを知っておられるイエス様を見上げて歩んでまいりましょう。
  『自分にできること』
マルコの福音書 14章1−9節
2011年 9月11日(日)

 マルコの福音書でイエス様の最後の一週間の出来事を読んでいますが14章に入りました。
この箇所の舞台は、その生き返ったラザロとその姉妹マルタとマリヤが住んでいた村であるベタニヤで、シモンという人の家でのことです。ひとりの女性がナルドの香油の壺を割り、イエス様の頭に注いだのです。ナルドの香油というのは、ヒマラヤ山脈原産のナルドという植物の根から取ったもので、インドを通って運ばれて来たそうです。それは非常に芳ばしい香料で、300日分の労賃に値する大変高価なものでした。
ヨハネ福音書を読むと、この香油を注いだのは、ラザロの兄弟マルタの姉妹マリヤであったようです。しかし、マルコの福音書には、この女性の名前が記されていません。なぜかといえば、この女性の名前ではなく、この女性の行った事に注目することが大切だからでしょう。
 タイトルを「自分にできること」としました。イエス様はナルドの香油を注いだ、その行為に対して8節にあるように「この女は、自分にできることをしたのです」と言われました。皆が同じようにナルドの香油を注げと言われているのではなく、競うのでも比べるのでもなく、かっこつけることも見栄を張ることもなく、できないことをやろうとするのでもありません。一人一人が自分のできることを献げていくことが大切なのです。正直に素直に、そして大事なのは「自分にできること」を精一杯して歩んでいくということです。
神様に助けを求めつつ、それぞれが良き香りを放ちながら自分ができることを献げ、イエス様を見上げ、いつも心から愛し、礼拝をささげ、感謝をささげ、仕えていく者として歩んでまいりましょう。
 『目をさまし、注意して』
マルコの福音書 13章28−37節
2011年 9月4日(日)

 マルコ13章は、終末についてイエス様が弟子たちに語られた箇所ですがその最後です。
聖書は「天地は滅びるがイエス様の言葉は滅びることがない」と言っています。
 「天地が滅びる」ということについては疑う余地はありません。聖書を読んでいようとそうでなかろうと、この世の終わりがあることは確かです。しかしイエス様の言葉は滅びないというのです。偉大な帝国ローマも、立派な神殿も滅びましたが、二千年たった今、イエス様の言葉は滅びないどころか、いのちのことばとして輝き続けているのです。
 さて、私たちは終末をどのように歩んだらいいのでしょうか。そのイエス様の滅びることのない言葉に信頼して生きるということです。イエス様の言葉も、語られるイエス様ご自身も決して滅びることがありません。それなら、その言葉を信じ受け取る人々も滅びることはないはずです。終末の日々は、このイエス様の言葉の確かさを、一人一人がしっかりと受け取り確認しながら歩んで参りましょう。
 ところで終末の日は誰も知りません。子も知らない(32節)とありますが、イエス様もご存じでないということです。そしてそれは私たちも、終末の日時を正確に知る必要はないということなのです。それを知ろうとするよりもタイトルのように「目をさまし、注意して」歩み続けるということでしょう。
 「目をさまして」とは、いつも神様に信頼して歩むこと、神様から与えられた使命の中に歩むこと、神様から与えられた賜物を用いていつでもお返しできるように歩むということです。主を待ち望みつつ、目をさまし、注意して、今週も歩んでまいりましょう。