ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年10月]を短くまとめてのせています。

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 『見捨てて逃げた』
マルコの福音書 14章43−52節
2011年10月23日(日)

 イエス様が逮捕されるという場面です。夜中に、強盗に向かうように襲って来て、イエス様は捕らえられるのです。しかし、イエス様は「聖書のことばが実現するため」と抵抗されませんでした。そしてタイトルにもありますように「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」のでした。
 ここに記されているのは、イエス様の十字架に向かわれる毅然とした態度と、あまりにも対照的な、弟子達の姿でした。全ての弟子達は、散り散りにイエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
 しかし、イエス様はそんな弟子たちに再び出会っています。打ちのめされていたであろう弟子たちは、復活のイエス様と出会い、もう一度立ち上がっていったのです。裏切った弟子達、逃げてしまった自分たちをイエス様は赦してくれ、愛してくれていることを知ったのでした。ふがいない、だらしない、臆病な、そんなことも全部含めて、イエス様は包み込んで支えてくれていることを知ったことでしょう。
 私たちも同様で、立派だからクリスチャンとなり、イエス様の弟子とされているのではなく、弱い、だらしない面も全部含めて、その上で弟子とされていることを覚えたいと思います。
弱さも何もかも含めて全部を支えられていることに一番の安心があるのです。だからこそ弟子たちはその後命がけでイエス様を伝えていくことができたのでしょう。私たちも全部支えられています、弱さも何もかも。この私たちを知っていてくださるイエス様に信頼して、たとえ倒れても、失敗しても、いつも神様の助けを求めつつ、また立ち上がって、このイエス様に従っていくことを選んでまいりましょう。
 『ゲツセマネの祈り』
マルコの福音書 14章32−42節
2011年10月16日(日)

 イエス様はオリーブ山のふもとにあるゲツセマネ(油絞り)という所で、十字架につけられる前、壮絶な祈りをされ、砕かれてあたかも絞られた油が滴り落ちるように、涙と血の汗を流して祈られました。
 このゲツセマネの出来事から多くのことが教えられます。イエス様の悲しみ、苦しみは、十字架に釘付けにされる以上にこのゲツセマネの園で経験されのです。
それは罪のない神の子であるイエス様がすべての人の身代わりとなって罪に定められ、神様にのろわれたものとなるという苦しみでした。ルカの福音書には、御使いがイエス様を力づけたことが書かれています。御使いの力づけが必要なほど、苦しみ、そしてこの霊的な戦いに勝利しなければならなかったのです。私たちの罪は、イエス様をこれほどまでに苦しめる恐ろしいものであるのです。
 弟子達に目を向けるならば、祈ろうとするけれども眠ってしまうということの繰り返していました。眠ってしまった弟子たちを責めることはできません。むしろ、イエス様の前に差し出された杯、人の罪のために十字架につくということに対して、人は何の力も持っていないことを知るべきでしょう。イエス様のために人は何も差し出すことができないのです。イエス様のゲツセマネで孤独な戦いはそのような私たち一人一人のためであったのです。
 そしてイエス様は、「神のみこころのままに」と祈って勝利されみこころを受け入れ、確信に満ちていくのです。「みこころままに」という祈りによって最終的な確信を持つことができたのです。私たちもイエス様のように、「御心のままに」と進むときに、平安を持って、勇気を持って、そして確信を持ってこの人生を歩みとおすことができるのです。
 『みな、つまずきます』
マルコの福音書 14章26−31節
2011年10月9日(日)

 最後の晩餐を終え、オリーブ山への途上での出来事でした。イエス様は弟子達に「みな、わたしにつまずきます」と言われたのです。
 イエス様はこの時、なぜ弟子達にこんな事をあらかじめ告げたのでしょうか。地震の予知が必要なのは、その地震が起きる事を阻止するためではなく、地震が起る事を覚悟させ、あわてないように、少しでも被害を少なくするため、少しでも良い状態を保つためです。イエス様が弟子達に告げたのはまさにそのためだったのです。ペテロは明確にその裏切りを告げられましたが、そのことをご存知でさらにその先を示してくださるイエス様に目を向け、立ち直っていくためだったのです。
 私たちが覚えておきたいことは、自分の弱さ、自分の惨めさに気がついた時、もうその自分の弱さも惨めさもイエス様に知られていて、そしてその自分のために祈っていてくれるかたがおられるという事です。
 イエス様はすべてを知っておられる方、全知全能のお方です。しかしすべてを知っておられるというのはこの世界の真理、世界の成り立ちなどを知っているというだけのことではありません。まさに私たちの弱さ、惨めさ、罪の深さ、何に弱いか、どんなときに傲慢になり、どんなときに神様のことを忘れやすいか、どんなときに悲しみ、どんなときに怒り、どんなときに後悔するのかということをご存知なのです。
 私たちもみなつまずきます。そんな私たちをイエス様はご存知でいてくださることを覚えてこの方を信じて歩んでまいりましょう。さらに私たちがさまよい出したところに先まわりして、そこで慰め救うために、「待っているよ」と声かけてくださる方であることを覚えて、この方に信頼して歩んでまいりましょう。
 『最後の晩餐』
マルコの福音書 14章22−25節
2011年10月2日(日)

 最後の晩餐は「過越の食事」でした。私たちは過ぎ越しの食事をしませんが、聖餐式を守っています。それでは聖餐式を通して、イエス様は何を教えようとしているのでしょうか。
まずは「十字架」です。24節に「これはわたしの契約の血です」とありますが、イエス様は、正しい神様との関係を持つことができる完全な契約を人々に与えることがおできになる方です。また「多くの人のために」とあり、他の箇所には、「あなた方のために」と記されていますからイエス様は、時代、人種、国籍を越えて、すべての人のための十字架であったことがわかります。そしてルカ9:31の変貌山のところで十字架のことを「ご最期」と表現しているのですが、これは脱出とか開放を意味する言葉ですから罪から解放を現しています。つまり、最後の晩餐、聖餐式を通して「新しい完全な契約による神様との和解」「すべての人の
ため、私のため」そして「罪からの解放」としての「十字架」を覚え、忠実な信仰の歩みをするように導かれているのです。
 またTコリント11章には「主の死を告げ知らせる」ためであることが書かれています。救いのメッセージを伝え続けていくための主の死を覚えるのです。さらに「自分を吟味する」ためであると教えます。相応しい歩みをしているかどうかチェックし気づき神様の前に悔い改めなければならないことがあるのではないでしょうか。25節に「神の国で飲む杯」があることを示唆されています。ですから希望を持って生きなさいというのです。
 最後の晩餐を通して覚えるようにと導かれている、十字架、宣教の使命、自己吟味と悔い改め、そして希望を覚えて歩んで参りましょう。